見出し画像

鉢の中の金魚

 信子は目まぐるしく車窓を流れる、翠緑の線の束を見つめていた。
 熱海を過ぎてからはもう暫く海は見えない。平日の汽車の内は閑散としていて、だいぶ前方に、会社勤めらしいスーツの男が、肘掛けの上で、ピアノを弾くようにかたかたとやっているのが見える。
 信子は手帳の間に挟んだ桃色の書簡箋を広げると、そこに書かれた細々とした、丁寧なペン字を読み始めた。

『拝啓・信子お姉様。
 もう、私はお姉様と一緒にいる事が出来ないのですね——。
 お姉様は、修一さんと、私との三人で帝劇へ観に行った日の事を、覚えていらっしゃるでしょうか。あの晩、お姉様は私に、修さんは好きか、とお訊きになりました。それから、もしそうならば、私が諦めるから一緒になるべきだと、そう助言して下さいました。
 二人で東京の下宿で暮らしていた頃、お姉様は、私が修一さんに渡すつもりだった手紙を、隠れてお読みになられていたのでしょう。そして、お姉様はその手紙をお捨てになられた。私が何度となく書こうとも、手紙はなくなりました。私はあのとき程、お姉様のことを恨めしく思った事はありません。
 ですから、帝劇の晩の言葉は、私には皮肉にしか思えなかったのです。私がその事を根に持って、内々に修一さんと決めていた、結婚について話さなかったのも、その為なのです。
 ところが、お姉様はその前に、志していた小説家をきっぱりと諦め、東京の証券会社にお勤めになっている義彦さんとのご縁談が決まったことを聞いた時は、私は驚き、心が捩じれるような悲しみでした。死んで詫びようとも思いました。
 お姉様も、修一さんがお好きだったのでしょう。
 同じ小説家を志すものとしても……それ以上にも修一さんのことがお好きだったのでしょう。
 もう、私はお姉様と一緒にいる事が出来ないのですね——。それでも私の大切なお姉様、どうか遠くはなれても、私の事を忘れないで下さい、どうか、由乃を見捨てないで下さい。私は毎日、お姉様から頂いた金魚の世話をして思い出して、泣いております……』

 信子は書簡箋から顔を上げると、人差し指で睫毛の下をそっと撫でた。

        ※

 修一は、几帳面な字で埋められた、原稿用紙の升目を見つめていた。そうしてから、また、白紙の原稿用紙へと手を走らせる。
 軽いノックの後、襖ががらりと開くと、いつもよりきっちりと着物を着こなした由乃が、ちょこんと立っていた。その顔はどこか紅潮しているようにも思えた。それが興奮によるものか、緊張によるものかは分からない。
「修一さん、そろそろバスが着く頃ではないですか」
「ああ、もうそんな時間か。汽車が遅れていなければ、その頃合いだね」
 修一は、万年筆を置いて、書物机から顔を上げると、ボンボン時計を見上げながら答えた。
「もしかしたら、もう着いて、待っているかもしれませんよ」
「なに、一時間に一本のだらだらバスだ、そう慌てる事も無い。それよりも魚屋に注文しておいたのは取って来たのかね」
「ええ、朝一番であがった新鮮なものを」
「酒は残っていたよね、吟醸が一本」
「とってありますよ」
「ならば、今晩の持て成しの準備は良いわけだ」胡座をかいた修一はそういって、満足そうに無精髭を撫でた。
「旦那様は本当にいらっしゃらないのですかね?」
「義彦さんか。手紙ではそう言っていたね、仕事でいらっしゃる訳だから、お暇が取れないのかもしれない。もしくは、仕事の後にどんちゃんでもやるのか、きっと夜中に酒臭いままで宿だけ借りにくるのは、失礼だとお考えになっているのかもしれないね」
「そんな、気になさらなくてもいいのに……」
「いいんだよ、僕も編集との打ち合わせで向こうに出た時には、何度か同じ境遇になった事があるから分かる」
 由乃は少し困ったような顔で、首を傾げたようなままいた。そうしてまま暫く無言のままいた後、畳の上を擦るようにして、静かに修一の横に寄り添った。
「でも、信子姉さんは来てくれるのね……」
「そうさ」
 暫しの静寂の後、それを破るようにボンボンが鳴った。
「どれ、そろそろ行ってみるとしようか」

        ※

 修一と由乃がバス停に近づくと、封筒の裏の住所と周囲とを交互に見渡している、モダンな服装の信子が、街路灯の下でぽつねんと立ち尽くしていた。
 その横を舗装もままならないがたがたとした畦道が一本、地平線のように横切っている。
 信子は、遠くからからからと下駄の音を立てて歩いてくる修一に気付くと、そちらを凝視したままいた。修一が大きく手を上げると、暫くの間をおいて信子も、それに従った。由乃は胸の辺りで小さく手を上げると、一旦、歩みを止め、小さく御辞儀をした。
「久しぶり、元気だったかい?」修一は懐かしそうな目付きでいった。
 信子は二人の顔をじっくりと眺めた後、「ええ、三年ぶりかしら、二人とも元気そうね」と答えた。
 その後、由乃のほうを向いて満面の笑みで、
 「よしちゃんも」といった。
 由乃は少し紅潮した後、昔と変わらない屈託の無い笑みで、信子姉さん、と一言いった。
 それを皮切りに、手を取り合わないばかりに嬉しがって、立て続けに再会の喜びを言葉にした。由乃の眼には、薄らと涙すらあった。
 修一はその様子を眺めながら、両切り煙草を一本取り出すと火をつけ満足そうに笑みを浮かべていた。紫煙が南からの風で、二人の横顔のほうへと鋭く横切る。
「待たせたかい」程よい頃合いで、修一が口を挟む。
「いいえ、五分程前にあの酷いバスから解放された所」
「ほらみろ、いい具合じゃないか」修一は由乃のほうを向いていった。
 そして、苦笑いする由乃を見て、顎をくっと上げると歩き出した。
「どうだい、とんでもない所だろ」修一は皮肉じみた、少々の自虐も含んだような口調でいった。
「ええ、よしちゃんからの手紙を読んでいたけれども、こんなに田舎だとは思わなかった」
「私と姉さんの実家はお街に近かったから、私も驚いたわ」
 それを聞いた修一は嬉しそうに、「若隠居だよ、若隠居、こういう田舎のほうが筆が進むのさ」と笑った。
「道理で昔より無精に拍車がかかっている訳ね」
「近所じゃ、先生なんて呼ばれているよ」
「ほんとに……。修一さんは良いかもしれないけれど、私は恥ずかしくて」
 小川が横を流れる畦道を、彼らは歩いていった。向こうには新芽の生え始めた茶畑が広がっている。その密集した木々の凹凸は、秘境の緑柱石のようで、紺色のどてら、紅い着物、黒のコートがその中を漂流していく。遠くには白みがかった山が、薄らと輪郭を明らかにしているばかりで、何も見えない。
「こうして三人で歩いていると昔を思い出す」信子が誰に言う訳でもなく、ぽつりと呟いた。
「三人でよくこうして並んで歩いていましたものね。私は姉さんや修一さんにくっ付いて画廊や劇場を回って。それでいつもお二人は文学の話ばかりしていて、私、着いていくのに必死だったの」
「あの頃の僕らは小生意気だったのさ」
「修さん、あなたは今でもそうでなくて」
 修一は顔をしかめると、煙草をくわえた。
「まあね、残念なのは、画廊や劇場の代わりに、あるのは畑ばかりだということかね」

        ※

 十五分程歩くと、由乃と修一の暮らす一軒家に着いた。勝手知ったる所である夫婦は、早々と玄関から居間に上がり込み、少々ぎこちなく信子もそれに続いた。
 八畳の居間には、所々、内装の代わりという趣で、乱雑な本の山が出来ていた。
 机の上には原稿用紙が数枚散らばっていた。紙面には、修一独特の蚯蚓の這ったような、読み難い文字が踊っている。
「どんどん本が増えていきますもので。修一さんの書斎だけでは収まらず、お客様をお通しする場所まで本だらけなのですよ」由乃が愚痴をこぼす。
「よしちゃん、私の家も似たようなもの、このほうが落ち着く。それに、修さんの新作も散らばっているみたいだし」
 そして、昔のままの字ね、と懐かしそうな顔をした。
「時々、修一さん、その字で書き置きを残すから、読めなくて」そういって由乃は笑った。
「安心して、昔からこの字を読めるのは、私くらいなものよ」
 由乃は笑ったまま、原稿用紙を纏めていた。
「まあいいじゃあないか、さっそく宴の支度を始めよう、由乃、晩飯の支度をしてくれ」
「私も手伝いましょうか」信子が立ち上がった。
「信ちゃんが料理だって、あの頃は文学一筋で家事もままならなかったのに」そう言って修一がちゃかした。
 すると後ろのほうでちょこんと座っていた由乃が、肩をぽんぽんと叩いて、姉さんは休んでいて下さい、といい、勝手口のほうへ消えていった。
 修一は火鉢に火をおこすと、それがてらに煙草にも火を与えた。そして、これといって特別不自然な表情もせずに煙を吐くと、信子に尋ねた。
「東京では上手くいってるのか」
「順調よ」
 信子は抑揚無く答えた。それに対して、修一は火鉢のほうに目を降ろしながら、二、三回首で頷いた。
「あの同人誌の連中は」
「今度、映画の脚本の話が来るそうよ」
「そうか……」
 修一は一度の顔を上げなかった。いつの間にか信子も、時折ぱちぱちと泣き声を上げる火鉢を見つめていた。
「お線香が、まだでしたね」
「仏間は奥だよ、案内しよう」

        ※

 大概の料理が出そろうと、修一が手を叩いた。
「美味そうじゃないか、さっそく乾杯といこう。由乃、信ちゃんと僕にお酌を頼む」といって徳利を手にした。
 由乃は酒を飲まないので、代わりにサイダーをグラスにつぎ、乾杯に参加した。
「いや、久しぶりだ、昔はあの劇団の友人やら、文芸仲間達と毎日どんちゃん騒ぎだったけどね」
 修一はなみなみ注いだおちょこを、くいっと一口で空にすると、眉をしかめて、広がる甘みと喉の熱を楽しんでいた。残りの二人は昔から変わらないその様子を眺めていた。
「それで、姉さん、今の東京での暮らしはどうですか」
「昔みたいな、どんちゃんはやらなくなったわね。義彦さんの仕事も忙しいみたいだし。でもたまに付き合って晩酌はするわよ、仕事の愚痴を言われても、証券なんてさっぱりだから、頷くことしかできないけれども」信子は笑いながら言った。
「僕も打ち合わせで東京に行くたびに驚くよ、目まぐるしく変わっていて、あの速度には着いていく自信が、もうないね」
 修一は自分で酌をすると、今度は打って変わってちびちびとやり始めた。その様子はどこか物悲しさすら感じさせた。
「そうね、私も結婚して、立派に主婦業をこなしている所よ。どんちゃんや、物書きよりも、こっちのほうが向いていたのかもしれないわ」
「義彦さんはお元気ですか、今日はてっきりいらっしゃると思って。まだ、写真でしかお目にかかった事が無いから……」
「今頃は会社の連中と飲んでいる頃でしょう」
「ここに泊まればよいのに」由乃はいった。
「夜分に酒臭いままお邪魔すると悪いからと言って、民宿をとったらしいわ」
「由乃、やっぱりしっかりした男、特に証券マンなんて男ってのは、みんなそういう風に考えるんだ」修一はそういって自慢そうな顔をした。
「そういうものなのかしら。とにかく残念ね……。私、姉さんと義彦さんの写真は全部大切にとってあるのよ。今、持ってくるわね」
 そういうと由乃はとことこと階段を上って、自分の部屋に向かった。暫くすると写真を片手に戻って来た。
 写真は三葉あって、一枚目は滝の前に信子と義彦が並んだもの、二枚目は新しく決まった借家の玄関で並んだもの。三枚目は式を挙げない代わりに、小さな劇場で、信子が紅い着物を、義彦が袴を着て撮った祝いの写真だった。
「この滝は伊豆の辺り、新婚の旅行の時のものね。この家も大きくはないけれど、住み心地は良いのよ。三葉目は……もう、恥ずかしいから閉まって頂戴」信子は少し頬を赤らめながらいった。
「姉さん、凄く綺麗よ。義彦さんも男前で、優しそうだし」
 そうして、由乃はじっと写真を観察していた。
「でもなんだか、姉さんの瞳……」
「もうやめて」信子は少し強い口調で言った後、三葉とも写真を伏せた。
 すると横で黙って写真をみていた修一が、「由乃、信ちゃんだって恥ずかしいんだよ、この写真は僕が預かっておくことにしよう」といって早々と懐にしまい込んだ。
 由乃は修一に対して、一瞬不満そうな顔を見せたが、すぐに元に戻った。信子はその不安を払拭するかのように続けた。
「美味しい魚に、美味しいお酒、楽園ね」
「おい、由乃、信ちゃんはここがユートピアだといってくれた訳だ、ついでやりなさい」
「東京の騒がしさも愉快ですけれど、ここの静寂もいいものですよ」由乃は細い指で徳利を傾けた。
「ユートピア……。空想的な理想の国。美味い酒があって、美味いつまみもある。気楽で自由気侭な生活か、しかしユートピアはデストピアと背中合わせなんだ。それは人間が退屈する動物である限り、全てが満たされたら、人は必ず退屈する。その瞬間に理想郷は消え去る訳だろ」
「修一さんはお酒が入ると、直ぐ理屈っぽくなる」
「思い出した、あなたの小説の一文を。『人の人生は二重性や二面性の顔が無ければ消滅する。一つだけしか顔のない人間はいない。だが二人の生を生きるのは大きな苦痛と犠牲があるものである』だったかしら」
「そんなことも、書いたかな……」修一は煙草を銜えた。「自分でいうのもなんだが、いい台詞だね」
 信子は何も答えず、酒を啜った。そうして、鯵のたたきを一口食べると、呟いた。
「また、自分の作品を書こうかしら……」
「ミューズはいつだって女達だ。そして彼女らを自由に虜にするものは、男だけだぜ」
「そうかしら、そんなグルモンの権威、古いと思う」信子が反論する。
 それに続いて由乃が、「だったら女じゃなければ音楽家になれないの? アポロは男ですよ」
 修一は姉妹の猛反発に、いよいよまいったという顔をして、煙草に火をつけた。
「すまない、どうやら僕の皮肉が行き過ぎたみたいだ。僕はね、作家をやって七年になるが、女性で信ちゃん程の才能を持った人は他には知らないね。うっかりしたら、僕の取った賞は彼女のものだったかもしれない」
 ——全ては人知を超えてしまった、巡り合わせさ……。

        ※

「由乃、先に風呂を済ませてくれ。僕らはもう少し酒が抜けてからにしたほうが良い」
 食器を片付ける姉妹に向かって、修一は言った。
「どうだい、信ちゃん。酔い覚ましに夜風でも浴びよう。良い月も見える」
 信子は縁側に向かうと、少し離れて彼の隣に腰掛けた。
 庭は何年も手入れを怠っているのか荒れ放題で、砂利の上に苔、池の淵に葦などは見受けられる。しかし、妙にそちらのほうが生き生きしているようでもある。
「今は荒れてるが、お袋が庭いじりが好きだったよ」
 背後からの電球の明かりが逆光になって、修一の表情を伺う事は出来ない。
 信子は廊下のひんやりとした木目の感触を、指に感じた。
 修一の素足が、投げ出された下駄に当たって、氷の溶けるような軽い音を立てた。
「お袋も逝ったし、またあの世界に戻れるのかな」
「修さん、そんな事言わないで……」
 修一は少しの間押し黙ると、胸倉から煙草を取り出した。
 縁側には金魚鉢が一つあった。
「ほら、昔、三人で行った縁日で買った金魚だよ」
「美麗な遊女、ですかね」
「金魚はね、餌をあげすぎるとむくむく太って、鉢から出られなくなる……」
 信子は何も答えずにいた。
 その後ろを、寝間着に着替えた由乃が、こちらに眼を配ろうともせず、寝室に消えた。

        ※

 翌朝、修一は、寺で母の三回忌の法要があるとかで、四苦八苦しながら一張羅の背広を着ていた。
「おい、誰かネクタイを結んでくれないかい」
 茶の間で洗濯物を畳んでいた信子が立ち上がろうとすると、すっと横から由乃が現れて、なれた手付きでそれをこなした。
「信ちゃん、昼過ぎには戻ってくるから、それまで待っているんだぜ」修一は外套を肩に引っ掛けながらいった。
 信子は肌着を手にしたまま、黙って微笑した。
 由乃は夫を送り出すと、お盆に茶を乗せながら戻って来た。二人は朝からのドタバタ騒ぎに少々疲れていた。由乃は、この辺りの近所との付き合いなどの世間話を降って来たが、直にそれも底を突き始めた。
 信子はふと、そんな話に相槌ばかりを打っている自分に気が付き、どんどんと心が沈んでいくのに気が付いた。ただ、一向に理由は分からなかった。
 そんな姉に妹はさらに気を使い、心配そうに信子の顔を覗き込んだ。
 二人には沈黙が来た。
 ボンボン時計が十二時を打った。
「なかなか帰りそうもないわね」信子は顔を上げるといった。
 それに合わせて由乃も時計に眼をやったが、冷淡に「まだ」とだけ答えた。その返事に信子は、夫の愛に飽きた新妻の退屈があるように感じた。
「姉さん、旦那さん、義彦さんのお帰りは」
 それに対して、信子も「まだ」と返した。
「よしちゃんは、幸せね」
「姉さんだって」少し憎らしそうに由乃がいう。
「本当にそう思うの」
「だとしたら、それだけで幸せ。旦那さんは、義彦さんは……」
「どう見える?」
「誠実でやさしそうな人ですね」
「そうよ、修さんみたいな皮肉を言わないし。でも最近、私が何か物書きを始めようとすると、嫌そうにするの」
「姉さん……本当のことを教えて。今回は旦那さんの出張で来たのではないのでしょう?」
「そうよ」
「だったら、何の為に」
「分からない……私は自分が、自分が悪い種なような気がする」
「姉さん、もしかしてまだ修一さんが……」
 信子は悲しそうな微笑をたたえながら、いった。
「あなた、手紙を無くしたことがある?」
「ええ、盗まれたわ。何度も何度も」
「あの手紙が今何処にあるか知っている?」
「いいえ、燃されてしまったのかもしれない、大切な私の想いは」
「机の中よ、修さんの」
 ——泣かなくたって良いのよ。
「悪かったのなら、私が謝る。私はただ、修さんが幸せなら、よしちゃんを愛していてくれるなら、それで、それでいいの」
「なぜ……? 教えてくれれば良かったのに。なにもかも、話してくれれば良かったのに」
「それは、無理なのよ」
「姉さん、一つだけ教えて。姉さんはどうして書くのをやめたの?」
「これ以上聞いても、良いことなんて一つも起らないわよ」
「もういいの、姉さん。耐えきれなくなって、ここへ来たのでしょう……?」
 ——私はやめていないわ。今も、書き続けている。
 筆を置いたのは、修さんのほうよ。
 私はやめない、修さんがいつでも帰れるように。
「じゃあ、姉さんは昨日の夜も」
「何も無かった、修さんはよしちゃんのことが好きだから」
「——良い人であろうとした。姉さんにも修一さんにも。でも、無理だった……」
「いいえ、そうでなくてはいけないのよ。例え無理だと分かっていても、人間は良いものでありたいたいと想い、人を信じていたい、それが一番大切なのよ」

 信子は座布団の脇に置いた鞄を持つと、立ち上がった。すると突然、由乃は袖を落として、涙に濡れている顔を上げた。彼女の目の中には、何も見えなかった。悲しみも、憎しみも。それは、その目を見つめる信子も同じであった。
 只、抑えきれない嫉妬とも羨望とも違う名状し難い情が、互いの瞳を火照らせていた。そしてまた由乃は、袖に顔を埋めた。
 手紙を無くさないでね、そう言い残すと、信子は玄関へ向かった。

        ※

 修一は畦道に転がった七、八本の吸殻を見つめていた。周囲は茶畑ばかりで、そんな中、一人礼服を着ている自分が滑稽に思えた。手にはじっとりと汗が染みていた。
 直に長く噛み締めていた唇から、血が出ている事に気が付いた。

        ※

 由乃は軽い目眩を覚えながら、夫の書斎へ向かった。
 机の上には、姉の、信子の丁寧な筆跡で埋められた原稿用紙が散らばっていた。
 その横には、修一の殴り書きの筆跡で、全く同じ文面が書かれていた。

        ※

 信子は昨日三人で通った、あの道を下っていた。
 それは遠い、遠い、昔のように思えた。同時に、この道を二度と通ることはないとも思った。
 信子の心は静かさが支配していた。それは、二重の生活が、一点に回帰した安堵によるものなのか。あるいは、真相を知った上での、再びの姉妹の仕切り直しに対する淡い期待の為なのか……。
 それでもまだ、永久に妹とは他人となったような心持ちが、意地悪く彼女の心の中に氷を張らせていた。
 自分が、鉢から逃げ出した金魚のように思えた。
 信子は、ふと目を上げた。
 道の向こうの翠緑の波の上に、外套を着た男が一人見えた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?