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共感と理解

0から1を作り上げるのが苦手な人間は、
ものを書く時も、人の書き物にインスパイアされて
書き始めたりするものだ。

そして僕もそういう人間であり、
この書き物もそうして書き始めたものである。


人に共感する

日常生活でも、あるいは国際協力という非日常でも、
よく聞く言葉である。

人間というのは欠点の多い生物だが、
そんな欠点のうちの一つとして、
「自らが経験のない事に対する理解力の欠如」が
あると僕は思っている。

想像することはできるし、
そんな経験をした相手の気持ちに同情し、
共感することはできるのだが、
その気持ちを完全に理解することは出来ない。

哀れな男どもに生理の苦痛はなかなか理解できぬ。
また、賢者である女性でも男が股間を蹴り上げられた
時の悶絶を理解するのは難しいだろう。


結局人間は経験でないと物事を理解することは
完全にはできない。

ただし理解出来なくても共感はできるのが、
そんな弱点を埋め合わせて余りあるほどの
人間の強みである。

経験の無いようなことでも、その辛さや苦しさ、
嬉しさや幸せに想いを馳せることができる。

全く違う生活レベルの人間に出会っても、
その価値観に納得し、新たな視点を獲得することができる。


理解出来ていないことを通しても
これだけのことが出来るのが人間という生物であり、
人間の心である。

ところが、往々ににして海外ボランティアの世界では、
この共感と理解が混同されがちである。

共感出来ていれば理解出来たと思われがちであるし、
理解出来ていないのと共感できていないことは、
同義であると認識されることがある。

支援先の人々のことを、我々日本人の価値観で
考えることをよしとしない風潮があったりもする。

支援先の人々に価値観を合わせようという発想は
理解しようとしているように思えて、
実はややもすると(つまり必ずではないが)、
相手の価値観に対する敬意を欠く。

自らの価値観の方がより優れているが、
それを理解できないだろうから合わせてあげるのだ、
という上から目線な思考が見え隠れする。


人間は出来ないことをしようとするとボロが出る。

経験していないことを理解しようとすると、
そこに争いが生まれることすらある。

人間のもう一つの欠点として、
「違い」を「間違い」であると
誤認しがちだということも挙げられるが、
理解した気になることで、この欠点は顕著になる。

その背景も分からぬまま、自らとの「違い」だけを
把握し、それを「間違い」だと誤認するのだ。

だからこそ宗教戦争はいつになっても起こる。

理解しようとしなくていいのだ。

その代わり共感すればいい。

違う事に共感し、そしてその存在を認めさえすれば、
それで充分なのだ。

それこそが多様性だし、多様性が無ければ、
人間の生きる世界には、なんの面白みも無いのである。




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