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ヒヨコになった日。

私が初めて髪を染めたのは、よくある話だとは思うが、東京の大学に合格したあと、春休みに入ったある日だった。

「私、今日今から美容院行くんだけど、一緒に行く?」
夕方までの約束で一緒に遊んでいた友人のそんな言葉で、上京を前に浮かれていた私は、ピヨピヨとその子についていった。財布にはお年玉の残りがそこそこの金額入っていたし、東京に行く前に少しでも、ロックな自分になりたかった。当時、その友人と私は某ビジュアルロックバンドにハマっていたので。
なんとその美容院は、車で送り迎えまでしてくれるらしかった。車がなければロクにどこにも行けない地方都市において、それは素晴らしい話だった。つまり、親の許可を取らずとも、自分たちだけで美容院に行けるのだ。そんなチャンス、今を逃したら二度とない。そこには大冒険の気配があった。

それまでの私は、背中まであるロングヘアをしていた。小学校低学年の頃からずっと、私はショートカットに憧れていたが、母は私が切ってくれと頼むたびに長い長い演説を披露して、絶対に肩より短くはしてくれなかった。その演説は一言で言えば「母が昔、長い髪にしたかったから」で、私は表面上は納得しながらも、ずっと不満を覚えていた。
しかし、母に切ってもらうのではなく、黙って美容院に行ってしまえば、好きなだけ髪は切れる。予め連絡したら絶対に禁止されてしまうだろうが、切ってしまえばこっちのものだ。大学合格で浮かれた私は、珍しくそう強気に考えて、母に連絡を入れないまま、初めて美容院に足を踏み入れた。

美容院の人たちは優しく、「ショートカットにしたい。色も明るくしたい。でも赤くなるのは嫌」という私のオーダーに、「じゃあアッシュブラウンにしましょう」と請け負ってくれた。誤算だったのは、所要時間だった。待ち時間も含めて、カットとカラーに2時間以上もかかるなんて、美容院初心者の私には完全に想定外だった。
カラーリングの段階に入ってから、携帯を使わせてもらって家に連絡は入れたものの、私と友人の施術が終わり、私が帰宅したのは21時過ぎだった。

果たして、母は怒った。そもそもが、絶対君主制と独裁政権を足して割らないような、支配型の毒寄り母である。夕食の時間に遅れることは重罪だったし、連絡を入れたのも20時近かったし、最終的に帰宅が21時過ぎというのは、それだけで母には「不敬罪」と判断されることだった。
更に、私の頭は綺麗さっぱりと、母が愛するお人形的「サラサラ黒髪ロングヘア」から「黄色寄りの茶髪の、結構ロックなショートカット」に変貌していた。母からすれば「国家反逆罪」まで適用されうる事態だった。
「そんなヒヨコみたいな頭にして!!全ッ然似合ってない、何考えてるの!!」から始まった大噴火は、春からの私の一人暮らしの準備のために母がどれだけ苦労しているか、髪など染めている時間はないのに、自分のことしか考えていない私は浅慮な馬鹿だ、と久しぶりに長時間になった。黙って推移を見守る父がその場にいなかったら、間違いなく殴られていただろう。
とにかく、予告なく帰宅が遅れたことに関しては、一般的に考えても悪かったと思ったので謝罪をしたが、その日の母の説教だけは、不思議と聞き流せた。似合っているかどうかは分からなかったが、長年の夢だったショートカットにできたことに、私は浮かれていた。
どうせ、もう数週間もすれば一人暮らしだ。私の髪を、私の好きなようにして何が悪い。流石に口には出さなかったが、内心ではそう年相応の反発をできるぐらいに。

それから20年以上たつが、私はずっとショートカットか、肩につくかつかないか程度の長さの髪で生きている。
母は私が髪を切るたび「長くできるのは若いうちだけなのに」などと不満を言い続けていたが、流石にここ5年ほどは諦めたようだ。そんなに長くしたいなら自分の髪を伸ばせ、と毎回心で言い返していたが、次の機会があったら本当にそう言ってみようと思っている。

ヒヨコと言われようと、キノコと言われようと、ショートヘアは私の、自由と独立の証だ。きっとこれからも、ずっと。

#髪を染めた日

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