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上野雄次という花道家との接点から。

今日は自分のお稽古が始まる前に、いけばなの問題意識を共有する頼もしい先輩、花道家 上野雄次さんの教室に顔を出してあーでもないこーでもないとお話ししてきました。

奇数月は上野さんが山採りした花材を使ってお稽古を行なっています。偶数月との値段差はしっかりその意味を表しています。

僕自身が東京で長らく暮らし、いけばなに携わる中で、今を生きる人たちが暮らしに取り入れられるいけばなを模索してきました。それは花材の入手から飾る場所に至るまでを一連の流れと捉えた時の、無理のない落としどころ探しでもあります。

その一方で、見聞きするお教室において、花をいける行為に欠けている意識についても思い寄せることも多くありました。

例えば、場にうつわを据えて花を挿すという行為自体は、いけばなという行為全体からすると、ほんの1割にも満たないことである、という見落とされがちな事実もしかり。

この1割を突き詰めるために先人は、光の捉えようから構成、背景にある思想その他をさらに1パーセント未満の精度で見極め、今に残る花型を生み出してきたであろうことは想像に難くなく。

ところが、この1割に定められた花型をまるでいけばなのすべてであるかのように捉えて教える人がいて、与えられた花材を、用意されたうつわと無目的な空間でお稽古する生徒がいる、という事実が、残念ながらあるわけです。あるわけ(理由)です。

古典に学び、未来に繋げんがために今を生きる。

伝統芸能は駅伝みたいにタスキをつないでいくものだと思ってます。平坦な区間もあれば、起伏に富んだところもあり、下り一辺倒があるかと思えばひたすら登るところもあるかもしれない。

走る、と言う行為をいける、という行為に置き換えるならば、道に合わせた走り方、時代に合わせた表現の仕方があろうもの。時代に揉まれてきた古典の素晴らしさは、つなぐタスキの価値を表しているにすぎません。僕らは僕らで、現代の駆け抜け方を各々が模索する必要があるのです。

あぁそうでした。誰にも喧嘩売ってないですよ、僕。


さて、本題です。


上野さんがいけばなの書籍を出版されました。ぱちぱちぱち!

『花いけの勘どころ 器と色と光でつくる、季節のいけばな』
(上野雄次 誠文堂新光社刊)

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この書籍のデザインを僕の古くからの生徒が手がけています。
なんという巡り合わせでしょう。

いけばなの神さま、ありがとう存じます。

書籍のデザインにも、いけばなのエッセンスが散りばめられていると思うとなんだかワクワクしませんか? 紙媒体という平面における立体の作り方、意識の起こし方。光の方向性、余白の生み出し方その他が、デザインに込められているのです。

いけばなを習う人だけでなく、花屋さんにも花の生産者さんにも仲卸さんにも触れてもらいたい一冊です。


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渡来 徹 | 花道家
ありがたくいただき、世界のどこかにタネを撒こうと思います。