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自分のしてきた以上のことは本に書けない。

「いけばなの本を書きませんか?」とお声がけいただき、自分の半生を振り返りながら、今の自分の花に通じているらしいところをピックアップしては、書き留め、通読しては書き直し、間にレッスンを挟んだら記述漏れに気付いてまた書き換え、知人との会話にヒントを得ては思い直し、なんてことをどれほどか繰り返したのち、先日ようよう編集者の元へ原稿を送りました。
「本を書く機会をもらったんです」なんて言うと、

「渡来くん、ライターだったんだから書くの得意でしょう?」

なんて言われることもありまして、得意かどうかはさておき、書くのは好きです。さいわい稼業として10年ほどがっつり従事してきました。ファッション、インテリアにデザイン、食に建築その他諸々と広く薄く携わらせていただきもしました。

ただ当時が今回と違うことは、取材対象者がいたことです。ファッションならデザイナー、プレス、スタイリスト、ショップスタッフ、ベンダーに有識者などなど、とにかく僕は人の話を聞いて商品についてねちっこく説明することもあれば、企画を立てたり提案をしてきたのです。そのため時には靴一足、素材から仕立て、ディテールなど根掘り葉掘り、重箱の隅に残った疑問までつっついてきたわけで。

言ってみれば聞く人でした。

そして、僕の文章が面白かった、とするならば、他ならぬそれは商品や、話してくれた人の内なるものが面白かった、ということであります。自分は、読みやすいリズムに整えることを心がけておりました。

ところが、今回は聞く相手がいない。僕自身に何を問うのか?

自分を中心に360度どこに向かって歩き始めても、自分について書くこととしては間違いでない気がする。けれどいずれも足取りが覚束ない、頼りない。
自分を客観視してご覧、なんて言われます。外から見た自分について、今置かれている状況がすべてを示しているとして。あれもできていない、これもできていないと、やりたいことばかりが溢れてくるわけです。今回はifなんてなパラレルワールドの憧れあっち側を書くことになんの意味もありません。 
そんな自分に編集者が質問をいくつか投げかけてくれたおかげで、脳内対話が少しずつ進んでいきます。

自分の幼少期、いけばなとの出合い、自分の考えるいけばなとは。

人前に私として出すものですから知識として得て血肉となったものは良いとして、聞きかじったもの、もしくは付け焼き刃の情報を入れたところで意味はなく。結局日頃、自分が考えていることを伝えるために文字にする。頭の中のデータベースを元にしているが故に、論理的なワープが起きないように項目についてひとまずひたすらテキストを書き出しては文脈を追いつつ不要なものを省いていく。

そうした文章の塊がいくつか出来上がっていくと、中には伝えたいと書いたはずのものでも、今回の流れの中では唐突に思えてくるものが現れる。閑話休題として挟むネタでも、はみ出しコラムとして挿れる文章でもない。思考の波にたゆたっていると、突如ザッパザッパとかき乱される。噛み込んでも上手に飲み込めない、喉に詰まる文章の塊。こうしたものをどんどん避けて整える。

表面取り繕うための思考すら、滑らかなテキストになって出てきちゃうものだから、困ったものです。我に返って「誠実だろうか?」と問い直しては削除する、なんてことも幾度もありました。恥ずかしながら「言い訳番長」だったんです。なんて書いてみて、こんなこと本文で書いてなかったな、といまだに思ったりして。

言い訳番長、今や番長なんて単語すら絶えつつあるかもしれませんが、目先のものをかわすために嘘以外の言葉を連ねるわけです。ええ、気持ちには嘘をついているということは見てみぬふりです。そんなことを今回は気付く限り省いて書きました。気づけない嘘まであるのかもはや不明ですが、あったとしたら重症です。

はなにはいけ手の生き様が反映されると言います。哲学、と置き換えられることもあるようです。花の評価=僕の評価で円グラフにすれば、カタチに偏りがあって安定には程遠いこと間違いありません。球体は力学的にも精神的にも安定、安心を表すといいますから、いずれ球体に近づけるよう研鑽を重ねていきたいです。

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ありがたくいただき、世界のどこかにタネを撒こうと思います。