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苦しいことありきで世界が美しく見えてしまうと、苦しくなければ世界が美しく見えなくなってしまう


「あなたは誰を助け、誰を笑顔にし、誰を幸せにしたいのか」
個人事業主になる時に一番困ったのは、ターゲットやペルソナを考えることだ。

「どう考えても自分ですね」
なんて答えはなんとなく許されそうもないしなぁと、それらしいターゲットやペルソナを設定したこともあったが、設定したそれらを語る時に私の口から出てくる言葉はどうも嘘っぽく、誰かに見透かされているような気がして何となく後ろめたかった。

ターゲットやペルソナがいかに大事かは説明されればされるほどに理解できる。
けれど、誰かを落としに、誰かのど真ん中を取りにいきたいわけじゃない。
私は私のど真ん中を貫きたいのだ。

助けたい明確な誰かがいる人と、その助けたい誰かが自分な人と、何となく楽しそうだから始める人と、色々いていいのだろう。

甘いことを言うな、と言う人には、カリカリしないで言わせてくれよ、言うだけはタダなんだからさ、とそれこそヘラリとしていたい。

何かと誰かの役に立つ自分でいなくては、と思ってしまいがちな私なのだが、
誰かのための自分のまま、誰かにとってのストライクになってみても苦しかったではないか、と過去の数少ない恋愛経験を思い出す。

好きになった人のために、どんなに家事が得意で小食で酒に少し弱い女を演じてみたところで(一体どんな男を好きになったのだ私は)、
彼が「じゃあまたね」と帰った瞬間、くつろぎの時間よこんにちは、とばかりに小躍りしては冷凍庫の奥底に潜ませておいたホルモンの味噌炒めをチンし、ワンカップ片手に漫画を読んで笑って泣いてトゥクンとしながら眠りにつく時間が一番幸せだった。

あーあ、こんなに好きであの人好みになってみたけど、あの人とは結婚できないや。
だってあの人は本当の私を好きなわけじゃないし、目の前でホルモンの味噌炒めを食べながらワンカップも飲めない生活なんて、もはや生ける屍だもの。恋愛って難しい・・・。
そんな風に、漫画片手に頬を濡らした過去の自分の過ちを繰り返すわけにはいかない。

誰かのための自分になって努力すればするほどに添い遂げられないのは、恋愛も自分の事業も夫婦関係も親子関係も友人関係もその他諸々も全て同じように思う。

顧客にとってのど真ん中な私。
夫にとってのど真ん中な私。
子どもにとってのど真ん中な私。
両親にとって、友人にとって、上司にとって、同僚にとって、後輩にとって。

添い遂げられるはずがない。

しかしこう書いていてふと
「子どもにとってのど真ん中な私」
という言葉が全くしっくりきていないことに気付く。

世間から見た母親としてのど真ん中をとりにいったことはあったとしても、どんな私でも好きだと言ってくれている我が子のど真ん中をとりにいったことはただの一度もない。
子どもに無条件で好きと言ってもらっていたのは私で、その愛情に安心しきり、わざわざとりに行く必要すら感じなかったのだろう。

子どもにとってはどうだろうか。
そう考えると自信がない。
この子が私のど真ん中を取りにくる必要がないよう「お母さんが好きであろう自分」じゃなくていいのだとちゃんと伝えたい。

そもそも、家事が得意で小食で酒にあまり強くない女性が好きだったはずの夫だって、
ホルモンの味噌炒めとワンカップが好きで、夜中にラーメンが食べたいと暴れる私を妻にし、今では家事育児をこなしている。

張りつめて窮屈そうな笑顔であれやこれやと気を回して過ごすよりも
こんなんですが一つよろしく、と豪快に笑っていた方が、たとえ縁がなかったとしても私も相手も痛みなく心地よく過ごせるのかもしれない。

そうこうしているうちに、普段は受け付けないタイプだったのに、いつの間にかストンとストライクになっていることだってあるのかもしれない。

とは言え、好き勝手やっていたら社会は回らない。
何かを得るには何かを我慢したり、犠牲がつきものだ。

頭の中でそんな反対意見を述べてくる私もいるが、とりあえずしばらく無視させていただくことにする。

そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないじゃないか。

社会が回るかどうかは分からないが、
少なくとも私の家庭という小さな社会は明るく回る。
私が笑うと子どもも笑うし夫も笑う。
みんながあーだこーだとやかましく自分を優先的に考えればいい。

主張が全然噛み合わない時は「全然噛み合わないじゃないか!」と驚きケンカして、疲れて眠って忘れてまた思い出し、また手を変え品を変え同じ主張をするのみだ。

そのうち交渉力というものが芽生え、子どもからのぐうの音も出ない主張に涙する日がくるかもしれない。(なんの話だ)

あれも欲しい、これも欲しい、は自分勝手なことだろうか。
浅ましいことだろうか。
物理的に手に入らないことは多々あるが、
その思いは誰かに非難されるようなことではないはずだ。

何かを得るには何かを諦め何かを我慢しなければ、という考えに取りつかれがちな私だから、折を見ては自分にも家族にも「欲しがってもいいじゃない」と言いたい。

そもそも、昔からよくある究極の2択などもよろしくないように思う。

結婚するなら「愛のない金持ち」か「愛があるけど貧乏な夢追い人」か。
就職するなら「高い給料だけど休みがない会社」か「安い給料だけど自由がきく会社」かなど、なぜか何かを得ようとすると我慢することが前提なのだ。

どっちも嫌だなんて言ったら空気が読めないやつだと言われかねないというのもあり、嫌だなぁと思いながらもしぶしぶ選んでいたように思うし、腹立たしいのは選択肢が少ないことには不満を抱きつつも、その我慢ありきの設定自体にはそこまで違和感を抱かなかったことだ。

どっちも嫌だね、と心が弾むような第3の選択肢を自分で作り軽やかに選んでいきたいと今は思う。

我慢はあまりしたくないが、努力が嫌いなわけではない。
努力の先にある達成感という喜びは知っているつもりだ。

それでも、苦しいこと込みで、苦しいことありきで世界が美しく見えてしまうと
苦しくなければ世界が美しく見えなくなってしまう。
ただ美しいものを見て美しいと思っているだけの自分に罪悪感を抱いてしまう。

ほら、とその辺の花でも摘むような感じで、もっとシンプルに幸せになっていいのだと自分や自分の大事な人に言いたいのだ。
人生は、進むほどに難易度が増していくのに何故か残りのライフは1つのみ、というようなハードゲームではないのだと言い聞かせたいのだ。

幸せになるためにクリアしなきゃいけない条件なんてものはない。

認知症になることを恐れて、認知症予防の運動や認知症予防に良しとされる食事を片っ端から取り入れては、私にその知識をあれやこれやと教えてくる母にも
「ならないように気を付けようね」と一緒になって怖がるのではなく
「安心して認知症になったっていい」と伝えたい。

子どもが学校に行きたくないと言うのなら
あなたは行く権利も行かない権利も持っているのだと伝えたい。

確かに甘いのだろう。
想像以上に様々なことが大変だろう。
それでも、自分と自分の大事な人に優しい自分でいたい。
それで初めて私は誰かにも優しくできるのだ。

恐れている状態になっていいのだ。
選択肢は自分でつくればいいし、一緒につくればいいのだと、
自分と大事な人に言える自分でいたい。

根拠はない。
根拠はないが、大事な人がその人の恐れている状況になった時も、大丈夫だよと笑って一緒に大丈夫にしていく心づもりと自信だけは何故かある。

そして今回に至っても、深いような浅いようなことを長々と言った自信が何故かある。

それでは最後に、ターゲットやペルソナは強いて言えば自分になるのか、と気づいた私が、
心新たに自分に向き合い、正直に絞り出した最新のペルソナの一部を紹介したい。

①その人(ペルソナ)は、日常生活において何があると嫌な気持ちになるでしょう?

・今暇?という友人以外からの恐ろしいメッセージ。
・作った料理が腐ったとき。
・自分ちの車の中がなんか臭う時。

②その人(ペルソナ)は、今後どんなものを手にしていきたいと思っていますか?

・バランスの取れた体系。
・年相応の落ち着き。

以上のような事柄がつらつらと書いてある私の最新のペルソナを見た夫が申し訳なさそうに言う。

「このペルソナ、俺もそうだし、多分みんなそうだよ」

今の私にはターゲットもペルソナも特に大丈夫そうだ。
鼻を膨らませて幸せ云々について語るのもいいが、精進したいと心から思う。

おわり

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