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今日と明日はこうして生きます

「これからどうなっていきたいの?どうやって生きて、何をしたいの?」
そう聞かれると、とても困ってしまう。
夫が主夫になってからは、この質問を受ける機会はさらに増えたように思う。

私は今日と明日をどう生きるかしか考えていない。
どうなりたいか、どう生きていきたいか、ひいてはどう死にたいか。
そんな大層なことは考えられないのだ。

そんなことを伝えると、
「後悔しないために一日一日を一生懸命生きるということですね」
と言われるが、そこで
「はい、つまりそういうことなんです」
と即答できるような立派な人間だったらなぁと思うこともしばしば。

後悔しないように一日一日を一生懸命生きる。
そんなことはとてもじゃないけどできない。考えただけで息切れしてしまうし、疲れてしまう。
だって、死ぬ前には絶対後悔するもの。
現に、今日半日を振り返っただけでも、すでに後悔している。

今日私は、これから会うほぼ初対面の方とのメッセージのやり取りの中で「ダイジョーブイ」と返信してしまった。
先方からの時刻変更の連絡に「大丈夫ですよ」とサラリと返信する予定だったのに、予測変換で「ダイジョーブイ」が出てきて、しかも送信までしてしまったのだ。

これは予測変換機能による間違いだと言おうにも、予測変換に出てくるほど普段から「ダイジョーブイ」を使っている奴なのか、と思われてしまうし、最近スマホが不調でして勝手に変な言葉に変換されるんです、などと嘘をついてみようとも思ったが、恐らくバレる上に「ダイジョーブイ」くらいでそんな気の毒な嘘をつくなんて・・・と思われてしまうかもしれない。
そんなことを色々考えた挙句、そのまま会うことにし、そして会った瞬間

「はじめまして。最初にこれだけは言っておきたいのですが、私は初対面の人にダイジョーブイと送るほど砕けた人間ではないのです。」

というナンノコッチャな自己紹介をし、後悔をした。

私の毎日は大なり小なり後悔の連続だ。

太く短く生きる。細く長く生きる。
そんなことは私が決めることでも誰かに決められることでもない。
死ぬときに、いい人だった、立派な人だった、惜しい人をなくした、そう思われたい気持ちは確かにあるが、そう思われるために、本来いい人でも立派でもない自分を取り繕うことはできないし、頑張って頑張って、最後の瞬間に

「みんな私を立派だと思ってくれたかしら。ほっ。」

なんて思うのは嫌だなぁと思うのだ。

後悔とは何だろう。
やりたいことをやる人生とは。
人生においてやりたいことが、貧富の差をなくすことだったら、褒められるのだろうか。
人生においてやりたいことが、落ちている変わった形の石をコレクションすることだったら、笑われるのだろうか。

真面目に考えていたら、無性にチョコミント味のアイスが食べたくなってきた。
と、ここで「アイスでも買ってこようか?」と言ってくれる夫。
そんなちょっとした偶然が、結婚してよかったとまで思わせたりもする。

私は実に複雑で、単純だ。

なにはともあれ、私はこれからも小さな嘘をつき、嘘をついたことを見破られて恥をかいたり、約束を破り、誰かを苛立たせ、悲しませてしまったりすることもあるだろう。
残念ながら私は、嘘をつかずに、約束を破らずに生きていくことはできない。
私は私のまま、生きて死ぬのが合っている。

小学生の頃から、約束や継続が大嫌いだった。
約束や目標を課されると、自分を追い込んででも絶対に守ってしまう自分がいる。
そうすると、次の目標はさらに高くなり、そしてさらに自分を追い込むことになる。
それはもう、果てしなく。

「千里の道も一歩から」ということわざを習ったときは眩暈がするほどの嫌悪感を覚えた。
そして「それならば、決して最初の一歩は踏み出したくない」と思った。
約束させられ、目標を課された瞬間、私は自分の意志とは裏腹に二千里は行ってしまうのだろう。一日も休まずに。

私にとって「約束」や「継続」とは、長距離走にも関わらずクラウチングスタートから始まり、ゴールまで全力でダッシュし、「次の試合は3分後なので水分はあまり摂りすぎないようにしてくださいね、脇腹が痛くなっちゃうんで。あと、できればさっきよりいいタイムを目指しましょう!」と言われてまたスタート地点に立たされるようなものなのだ。

そんな「ちょうどいい塩梅」を知らなかった私が見つけた、私にとってのちょうどいい塩梅。
それが、「今日と明日はこうして生きます」だ。

今日と明日の約束はできる。
明後日以降は分からない。

そんな毎日が、なんだかんだで30年以上続いている。

そしてそんな今日と明日しか考えていない私と結婚し、子どもをもとうと考えた猛者が夫だ。

大勢の人の前で、声高らかに継続の約束をさせられる結婚。
私にとって「千里の道も一歩から」の代表例でもある結婚。

あなたと結婚したくないわけではなく、「結婚」がしたくないのだ。
ずっと一緒にいるということを約束するなんて恐ろしい。
考えただけで苦しいので結婚は遠慮したい。

そう伝えた時の夫の呆然とした顔は生涯忘れないだろう。

そんな心底面倒な私の考えをよく分かっていなさそうな顔で聞き、
その顔通り「ちょっとよく分からないけど、分かった」と言って、
「いつ何時でもすぐにお別れます。その際は、お互い楽しくやりましょう」
という婚前契約のもと、成立した私たちの結婚。

「縛ろうと思っても、様々なことは表面上しか縛れないから、実際の直ちゃんは自由だ。寂しくもあり、怖くもあり、面白くもある」
というような話をしたように思う。
(いや、かっこつけた。本当は「よく分からないけど、楽しくやろう」だった。だけどかっこいいから今後はこう言わせてもらう。)

そんな夫が会社を辞めたり、何かを始めたり、時に何もしなかったりしたら、
「実際のあなたは自由だ。寂しさはないが、ちょっと怖くもあり、面白くもある」
と伝える。
(何もしなさすぎる時はここに怒りがプラスされることも少なくない)

今日と明日、夫は主夫で、明後日は分からない。
そんなことを言いながら、30年も続くこともある。

この生活は、今日今この瞬間だって、いつだって捨てることができる。
続けることもできれば、捨てることもできる。
そう思うと、楽で、怖くて、面白くて、頭はいつも動いていて、疲れて、この先どうなっていきたいかなんて考えられないのだ。

「子どもがかわいそう」
「きっと強いお子さんになるから大丈夫だよ」

いただく言葉に対しては、心配かけて、申し訳ないなと思う。
申し訳ないなと思いつつ、かわいそうに見せないために、幸せに見せるために、弱く見せないために、強く見せるために頑張るようなことは
しないと選択している自分がいる。

本来はそう見せたくて仕方がない自分だから、あえて「じゃない」選択をしているのだと思う。

私の嘘はすぐバレるし、バレていないとしたらそれはその人の優しさにより指摘されていないだけだと思うから。(ありがとう…!)

それに、見せてはいけない姿は少ない方が生きやすい。

大丈夫っちゃ大丈夫。

この一言に尽きる。

そして私は今、チョコミントアイスを食べたかったと思いながら、夫が買ってきたサツマイモ味のアイスを食すのみ。
トホホ。

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