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映画「画家と泥棒」をみてぼやく

たまたま聞いたラジオのレビューで、「画家と泥棒」というドキュメンタリーのお話を聞いた。とりあえず配信で観てみる。これがなかなか心を掻き立てられる。

絵を盗んだ泥棒の男性と盗まれた画家の女性が交流を持ち始め、憤慨したり仲直りしながら不思議な関係に陥る、というなんとも形容し難いストーリー。ストーリーといってもドキュメンタリーなので、起こったことが記録されているだけなのだ。

最初は盗まれた画家の女性の視点で語りがすすむのだけれど、途中から盗んだ男性の視点で語り直される。同じようなことを語っているようでいて、微妙な差があることが興味深い。そして、この映画途中までみていて、なんだか居心地が悪い自分に気がつく。

第三者の視点だ。

画家と泥棒の視点のほかに、カメラを持って、この映画を作っている人間の視点がある。もちろんカメラマン(監督)が話すことはなないし、監督がその存在を仄めかすことはない。しかし、第三者がいることを感じずにはいられない場面がいくつかあって、そこに「はっ!」となる。

それは、怪談のように気味が悪い。

夏の夕暮れ。ぼくはだれかに恋の相談をしている。その恋の相談を聞きながら、聞いている誰かは「あ、そりゃ大変だね」とか「うん。それ、いいね」とか相槌を打ってくれる。そして、そろそろ話を切り上げてそこを離れる時に

「あれ、今だれと話していたの?君一人しかいないのに」 

と、突然、声が聞こえる。

一人で話していた自分に気がつく怪異と、それ以外の誰かに指摘を受ける怪異は、質の違う怖さだ。「あなたがいないことに気がつく」二人称の怪異は「不在」の恐ろしさだけれど、今まで気が付かなかった誰かの「存在」を知る三人称の怪異は、ちょっとだけ趣が異なる。

怖い話を語る人たちは、この違いをうまく使い分ける。

この映画「画家と泥棒」怖い話ではないのだけれど、「画家と泥棒と(  )」という感じになるのだけれど、この(   )は、実は一番興味深く、そら恐ろしい。

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