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物書き、小説家、ブロガーに付き纏う気恥ずかしさについて

はじめに。
この記事は僕が「物書き」と名乗ることや、自己紹介の場で文章を書いていると明言することへの嫌悪感とその原因について記したものです。なのであまり有益なものではありません。ご注意ください。

僕は自身について説明する際に「物書き」なんて言葉は恥ずかしくてちょっと使えない。

僕は恐らく平均的な人よりも文章を書く機会というものを多く設けているし、その文章力――なんて曖昧な概念だろうか――についても多少ある方だとされている。実際に小説を書いたりnoteを投稿したりしていて、文章への興味も強い。けれども僕はタイトルにあるような肩書きを名乗ることを避けている。

「小説家」については論じるまでもないが、僕は職業としての小説家ではないし、小説も積極的に賞に応募したりもしていないから使わない。
「ブロガー」も僕自身ブログを長期に渡って継続しているわけでもないから使わない。

問題は「物書き」だ。
もう、なんでもありなのだ。物を書いているというだけのことだから。そしてなんとなく雰囲気も良い。「私は言葉に触れて静謐な世界を過ごしていますよ」みたいなブランディングができる。これがいけ好かない。ただ文章を書いているだけなのにぶってんじゃないよと思ってしまう。文章なんて義務教育を受けていれば誰でも書けてしまうし、その巧拙についても基本的にはあまり差異はないと感じている。

ブログなり創作物なりに触れているとこれらの肩書きを用いているアカウントをよく見ることになるのだが、僕はどうにもそのうちの九割を好むことができない。こんなやつが賞を取るような小説や文章を書いてたまるかと思ってしまう。そういうアカウントが無数にあって、小綺麗な喫茶店でコーヒーでも嗜みながらMacBookで書いてます(笑)みたいな顔をして愚にもつかない軽薄な内容の文章を連ねていたりいなかったりする。僕は実際文芸作品を書くサークルに属していたがその大凡はひどいものばかりだった。


攻撃的になって記事の主旨がはっきりしなくなってきたので一度リセットする。

つまり僕が言いたいのは、以上のような表層的でテンプレートな小綺麗さみたいなものに反吐が出るということだ。
文章にまつわるコンテンツにはこれらのような印象がこびり付いていて、それが文章を書くことへの気恥ずかしさを誘発しているのだ。

ブログという媒体で文章を読みやすいように一、二行空けることにさえその気恥ずかしさは付き纏う。ポエムチックに見えやしないかと不安になる。
ただ文章を書く以上、書き手は読み手への配慮が必要となるため改行は避けられない。今ではもう慣れたけれど、最初の頃は嫌に恥ずかしく感じていたものだ。

僕はやはりと言うべきか、他人が嫌いだという感情が強く表れてしまう性格なのだ。少なくともこんなnoteを書いてしまう程度には。ただその嫌悪感は間違いなく、仮想の三人称視点から見る自身の姿に対しても向けられている。

「物書き」を名乗る人々は、「物を書く人格」と「日頃の人格」とを分離させてはならないし、ひいては「日頃の人格」を「物を書く人格」として相応しいものにしなくてはならないというのが僕の持論だ。

アカウント上で「物書き」を名乗るのであれば2ch名言集をRTしてはならないし、モンストの石が貰えるツイートもしてはならないのだ。
つまりはリテラシーだ。小説家志望の人がnoteでアンチコメントに対して反論している記事を見たがなんてつまらなくってひどい記事なんだろうと思った。

文章を書いているのは紛れもなく「私」であるという認識がないことには、文章の力は限りなく弱くなるように感じている。とても薄っぺらくなってしまう。意匠を凝らした文章を書くキーボードとその手つきは、エロサイトの名前を検索ボックスに入力する際にも同じものとして発揮されているということを、忘れてはならない。多かれ少なかれ、人の手というものは汚れているものだ。僕にその手を汚せというのか、というのはよもや愚問だ。

小説家志望とプロフィールに書く大学生がたくさんいる。性格が内向的で大人しげであっても、下手で中身の無い作品を書く人間がたくさんいる。
僕の頭上では頭のよくない大学生たちが床を踏み鳴らして叫んでいる。
時刻は午前四時三十分。漏れなく怪死を遂げてほしいと思っている。

言葉というものは月並みだが諸刃の剣だ。僕という人間の不完全性についてはいくらでも指摘することが可能だと思う。僕は他人を攻撃する権利なんてものは本来持ち合わせていない。結局のところは僕だってなにもできずにその他大勢に呑み込まれていって、やがて死に、忘れられていく。

僕は多分、一般的な社会を生きていくのには本当に向いていないんだと思う。だからなにかしら、クリエイティブな職種に就くべきだった。だが、僕はスキルなんてなにひとつ身に付けていない。

だから、物を書く人々は「物書き」と名乗って自己をアイデンティファイしたがる。「物書き」という肩書きはほとんど最後の砦のようなものだ。何もない者たちがそれに縋っている。断っておくと僕は「物書き」を名乗っていないからあいつらとは一緒にするな、と述べているわけではない。僕もどちらかと言うとやはり物書き側の人間だ。つまりは僕だって「物書き」乃至は文章というものに依拠している。文章を書いてなにか成し遂げたような気分になっている。

「物書き」というものはそういう意味ではとても不健全だ。いや、不謹慎だ。世の中に失礼だ。多くのアマチュアの書く文章には値打ちがつかない。その価値をなんとかして高めるためには先述したような人格の統合とリテラシーとが求められる。

僕の文章には値打ちがついていない。谷川俊太郎のようにはいかない。
精々なりきりアカウントでコメント欄を荒らして何故かポスターを貰い受けた程度だ。

僕はこれから先しばらくは「物書き」を名乗ることはないだろうし、「物書きのはしくれ」にすらならないだろう。


悪あがきもこのくらいにして、もうこの記事は終わりにする。


時刻は午前五時。

相変わらず外は暗く、頭上の大学生たちもじゃんけんをして騒いでいる。

2400字書いて、結局なにも得られなかった。負け惜しみだ。

窓を開ける。冷たい空気が足元から忍び寄ってくる。


また今日がやってくる。



粗悪な暗喩と文章の締め方。お前はやはり物書きではない。

糞の役にも立たない文章を書いていないで就職先を探せ。

二度と顔を出すな。

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