村上春樹をつまらないという人々へ (純文学的小説が要求してくる「読み」について)


 一般的な、村上春樹という小説家に対しての印象というのは、非常に短絡的な見解によって形成されてしまっている。

 それは村上春樹の文体が有している独特なアトモスフィアや登場人物たちの趣向、そしてセックス・シーンの多さから軽率に作り出されてしまったものである。

 そのため、インターネット上の大喜利のようなもので、村上春樹はしばしばネタにされる。村上春樹の文章というのはこういうものだろう、というふうにして文体模写まがいの大喜利ツイートというのをよく見かける。

 僕はたしかに村上春樹を好んで読んでいるし、ファンといっても差し支えない人間であるけれど、別にそんなことに怒りを顕にしているわけではないし、怒りなんて毛ほども感じない。ただそういう形で村上春樹というものに触れる機会が人々にはもたらされている事実があるというだけだ。

 つまり、村上春樹の小説というものは下に示すようなものである、という認識がなされていることが多い。

・言い回しが独特で鼻にかかる

・よく酒を飲んだりする

・現実味のない会話をする

・「やれやれ」と言いがちである

・すぐセックスする(それも唐突に)


 こういった、ストーリー(あるいは文体)という表層に出てくる具体的な物事に人々の目は奪われてしまっている。

 そんな調子で「村上春樹って人気だし、いっちょ読んでみるか」と言って『ノルウェイの森』だとかを買っても、恐らく意味がわからないだろうし、セックスしたり人が死んだり主人公がなよなよしてたり浮気したりするだけでなんかつまんねえな、という空虚な感想を持つことになる。


 あらゆるものにジャンルという枠組みが存在するように、小説にもジャンルが存在する。

 これを本当に超簡略化して二分化した場合(これはあくまでも僕が便宜的にジャンルとして設けただけであるから、この分類についての文句は控えていただきたい)、

「エンタメ小説」と「純文学小説」とに分かれる。

前者は大衆小説とも言い換えられる、純粋に物語自体やそこにある伏線とその回収、ミステリー要素などを楽しむもので、賞で言えば直木賞にあたるだろう。

後者は「大衆小説に対して「娯楽性」よりも「芸術性」に重きを置いている小説を総称する、日本文学における用語(Wikipediaより)」であり、賞で言えば芥川賞にあたるだろう。

 そしてこういった枠組みからひとつひとつの小説、あるいは作家に要素の濃度(エンタメ的であるか純文学的であるかの傾向)を見ることができる。

 例えばライトノベルの「多くは」エンタメである。ソードアート・オンラインはなにか抽象的な物事について伝えるわけではなく、その物語自体が「楽しむべき対象」である。

 漫画なんかもそうだ。ジョジョのこのスタンドが面白いだとか、ブリーチのこの卍解が強いだとか、格好いいだとかそういった部分が「楽しまれるべき対象」である。

 ただ、純文学はその「楽しむべき対象」というものが、そのストーリーの奥にあるもの――あるいはそのストーリー全体が読者に想像としてもたらすもの――になっている。

 極端な話、カフカの『変身』においてグレーゴル・ザムザがある朝目覚めた時になってしまっているものは別に巨大な毒虫である必要はないのだ。それはバッタでもよかったのだ。ただ、人ならざるものであり且つ嫌悪されるものであればなんでもよかったのだ。ただ便宜的にフランツ・カフカはグレゴール・ザムザを毒虫にしたに過ぎないのだ。

 つまり、純文学的(というのが適しているかわからないけれども)小説というのは、ストーリーというものを飽くまでも巨大なメタファーとして用いるという「例え話」の扱いをする。

 だから、そういった小説に対してミステリー的な要素や、エンタメ的な面白さ、あるいは商業的な厚みの無い感動のようなものを希求するのはなかなか難しい。

 まとめると、件のようなジャンル(ここで僕が言っている「純文学」)の小説の「楽しむべき対象」は、

「そこに書かれていない、小説から読み手自身が帰納することで獲得したもの」である。

 芥川龍之介の『羅生門』を、ただ字面のみを追って「下人がこうしてああした。はいおしまい。」というふうにして済ましてしまっていては、それはただの「読んだふり」になってしまう。

 読み手はその個人によって解釈の仕方、あるいは焦点を異にしながらも、面皰(にきび)についてや正義の心について、前後で矛盾した下人の行動、そこに伴って生まれていた心情の変化について、読まなくてはならない。

 人々は日本語の言葉や文法を知っていながらも、その大半は本当の意味で小説を「読む」ということができていないのです。

 

 そして話は最初に戻ります。

 村上春樹は読み手に、ある瞬間に、極めて抽象的で観念的な読解を要求してきます。村上春樹自身、読者には自由な読みをすることを認めていますが、作品の奥、そのかたちが象徴的に展開し、見せつけてくる誘惑的な読みに惹きつけられることになります。

 それはさっきまでなんの気なく読んでいた小説をどうしようもなく暗いものにさせることさえあるのです。

 

 今後、村上春樹作品に共通するストーリーのモチーフ、そこに存在する世界の在り方について、僕なりの――そして他の方も行っている密度の高い解釈と共に――解説のようなものを書こうと思います。興味のある方は是非お読みいただけると嬉しいです。


 最後に。

 昔読んで、有名だけどつまらなかったな、という作品も、その読解する力の増幅、あるいは年を重ねることによって、違った見え方をするようになっているかもしれません。

 読み過ごした文章を再度注意深く読むことによって、素晴らしい読書体験を得ることができるでしょう。

(読んでいただきありがとうございました。)

 

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