1章6節 徐々に見えてくる不穏

ゴールデンウィークが終わる頃、敦は山梨県へ出張した。1年生が秋に行う移動教室の実地踏査である。同じ区内の全ての中学校で合同で行う実地踏査だったから、他校の教員と初めて交流をもつことになった。

「え、Z中は新採に実踏来させてるの?峯本さん何考えてんだよ」

そう言ったのは、同じ区内のK中学校からやって来た森田である。Z中学校の峯本校長とも知り合いだという森田は30代半ばの中堅で、人当たりのいい信頼できそうな人物だった。その森田から何とも心配になる言葉を投げかけられた。K中学校は森田と一緒に敦の同期である横川が来ていたが、これは学年主任の森田が経験を積ませるために時間割にかなり無理を言って連れてきたのだという。周りを見ても新規採用の同期は他に1人もいなかった。厳密には1人いたが、その1人は昨年度も産休育休の代替で現場に立っていて完全な新米1人というのは敦だけだった。森田は続けた。

「だってこの実踏来たやつが、2泊3日の全行程を考えて実施要項作るんだぜ?お前大丈夫かよ?」

そんなこと、敦は全く知らなかった。香川からは、どんなところに行くのか見てきてくれとしか言われていない。それに日頃の様子を見ていても、2泊3日で何をやるかは香川が決めるんだろうと思っていた。

「ウーン、確かに新採の人に行かせるってのはあまり聞かないねえ」

Y中学校のベテラン、金本が同調した。とても穏やかそうな印象で、Z中学校にはあまりいないタイプだった。若干不安になったが、とりあえずこの3日間で見たことは全てメモして香川に相談しよう。敦はそう決めた。

3日間はあっという間だった。朝から夕方まで回るところが多く、山登りも3日間で2回行った。身体は疲れたが森田や金本をはじめ、先輩教師達から沢山の話が聞けて有意義な時間だった。しかし時間が経てば経つほど自分の置かれた状況が心配になった。K中学校の新採である横川は、手取り足取りと言っていいくらい森田に丁寧に教えてもらっていた。ここはよくメモしておこう、ここは●●について質問しておこう、ここではこれについて調べよう…と、明らかに横川を育てようという意思が見られた。時間割すらいじってここまで連れてきたのだから、疑いの余地すらない。

俺はどうなんだ?

ここに来るまでに学年の教員から教えられたことは、せいぜい山登りは寒いから上着を忘れるなということと、熊が出るかも知れないとかそのレベルだった。この実地踏査で何を見てくるのか、大事なことは何なのか、この実地踏査のあとはどうするのか、誰も何も教えてくれなかった。不安しかなかったが、敢えて見ないふりをした。難波が3月の終わりに言っていた『手取り足取り教えないから、見て盗め』という言葉を思い出し、俺はゼロから教えてもらわなくても成長できると言い聞かせながら。


「じゃあ、またな!頑張れよ」

実地踏査が終わるとき、森田から声をかけられた。こんな話しやすい先輩がいたらどれだけ有り難いことか…と思いながらも、敦は頑張ります!とだけ答えた。


実地踏査が終わり、再びいつもの日常に戻った。そして5月から敦の身の回りは徐々に加速度をつけて動き始めた。

まず、自分が副担任として所属している1年生で揉め事が2つ起きた。

元々加藤の担任している1年2組は小学校から問題児とされてきた生徒が多かった。担任の加藤は30代半ばの穏やかな女性で、かなり早い段階で生徒はつけあがった。学活も授業も、いつもうるさい。加藤が注意すれば舌を出したり悪態をついたりする。そんな1年2組で、美術の授業をボイコットするという事件が起きた。

美術の教師は敦と同期の渡邊で、30歳前後の物静かで正義感の強い女性だった。何人かの生徒がボイコット宣言をしたのを受けて、それを職員室に報告したところ職員総出で1年2組の生徒達を取り囲んで説教した。こんなことって現実に起きるんだな~と、そのとき敦は呑気に思っていた。しかしその2週間後、今度は加藤を1年2組の竹岡という女子生徒が殴るという事件が起きた。授業が終わり職員室に戻ろうとした敦に、1年2組の男子生徒が声をかけてきた。

「せ、先生!竹岡が加藤先生を殴った!」

「え、本当か?」

「竹岡は一階に連れて行かれて加藤先生は保健室行った!俺達どうしたらいいの?」

1年2組はみんな動揺しているとその生徒に言われ、敦はとりあえず自分は教室にいようと判断した。周りに他の教師が誰もいなかったし、生徒が動揺してるなら傍にいたほうがいいだろうと思ったのだ。教室でもせいぜい、大丈夫だよとかとりあえず本読んでろとかその程度のことしか言えなかったが。

そして職員室に降りたところ、香川に怒鳴りつけられた。

「芦田さん、どこ行ってたんだよ!」

「あの…1年2組の教室にいました」

「何で?」

「いや、生徒の傍にいようと…」

香川は机を殴って立ち上がった。

「違うでしょ!こういう時は全員で指導しなきゃダメじゃねえかよ!こんな時に周りと合わせられないとか、社会人失格だよ!」

俺が何のために教室にいたのか、理由すら聞かないのか。敦は怒りがこみ上げてきて、表情が険しくなったのに気付いた。ハアーっとため息をわざとらしくつき、香川は職員室を出て行った。様子を見ていた養護教諭の熊田が事情を聞きに来たが、敦は理由も聞かずに人を社会人失格扱いする人間性が理解できなかった。

「僕は生徒がみんな動揺していると言うから、生徒がどうしたらいい?って聞いてきたから教室に向かったんですけど社会人失格だって言われました。そんなに悪いことですか?」

熊田は困った顔をしつつもまるで生徒に言うように、

「うーん、怒られちゃったのね~」

と笑って言った。そんなことを言って欲しいわけじゃない。しかし事情を熊田が伝えてくれたのか、その日の放課後香川がいないときに1年3組の担任の織田が笑顔で言った。

「香川先生が『詳しいこと聞かないで怒鳴っちゃって、芦田さんに悪いことしたなあ』って言ってたから、芦田さんだってわかってますよって伝えておいたわよ」

この織田は4月から異動してきた教員だが、ことあるごとに『前任校では~』を繰り返してZ中学校のやり方に合わせる様子が見られなかった。その一方で香川の言うことには完全に追従する。おべっかにしか見えないその言動は、敦から見てもイライラするものだった。

そんな織田だったから、笑顔で言われても何一つ嬉しくなかった。むしろこの職場で香川の気に入らないことや意に添わないことをやったらあそこまで怒鳴られるのか、とこれからが不安になった。距離をとろうにも学年主任で教科も同じ。どうしたってこれからも怒鳴られることになりそうだった。


次に授業の受け持ちが変わった。敦は2年生のあるクラスで、メインの授業者になった。

「2年生は難しい。全然規律が出来てないし、全体的にいやな雰囲気がある」

ある日、既に体育の授業で2年生を受け持っていた本田が言った。敦が次から2年生の授業なんですと話したときだった。どういうことなのかよくわからなかったが、始まってみるとすぐにわかった。

まず授業中の私語が1年生の倍以上だった。最初は新米の教師に対して好意的だったが、授業がつまらなくなるとすぐ飽きて騒ぐ。注意すると不貞腐れる。この学校の中で勉強が出来るとされている連中は、最初から周りとコソコソずっと喋ってヘラヘラしている。敦が教室に入るなりため息をついた女子生徒もいたし、授業中に本を読んでいた女子生徒もいた。どちらも香川が顧問を務めるソフトテニス部で、2年生のエースだという。

2年生達も人を見ていた。敦と岸川のことは完全に舐めていた。香川や難波、あとは陣内などにはそんな態度、絶対見せなかった。敦の授業中に本を読んでいた女子生徒は、通りがかった陣内に読んでいたその本で頭を殴られた。その後敦のところに謝罪に来たが、恐らく陣内に言わされたのであろう謝罪の言葉を述べると「コイツやっぱ全然怒んねーわ」と、付き添っていた別の生徒と笑いながら去って行った。

2年生達は敦と共に授業を受け持つ女性講師の八谷のことを、友達以上姉未満のように接していた。衝撃だったのは敦の授業中、八谷が後ろの方で何名かの女子生徒と談笑していたことであった。私語が始まり注意すると、そこに八谷が行って私語が広がる。講師のお前が何で授業の邪魔すんだよ!1つか2つ年上の八谷だったが、敦はかなり悪印象を抱いていた。その割に香川や難波からの評価は高い。区費で雇われていた講師だったのを、香川と難波が掛け合って都費の講師にグレードアップしたらしい。

「八っちゃんは今度の採用試験、きっと受かると思うんだよな」

難波がある日の飲み会でそう言っていた。敦は彼女の授業自体をほとんど見ていないので何も言えなかったが、授業はチームでやると香川達が言っていた割に八谷のやっていることは違うんじゃないのかと疑問だけは残った。

別のある日、印刷室に入ると第2学年の学年主任である日村がいた。香川達とよく飲みに行くし、香川と比べれば威圧的な感じはないし難波のように表裏のあるタイプでもない。どちらかと言えば話しやすい人という印象だった。さほど深い意味もなく、敦は言った。

「2年生の授業って難しいですね」

次の瞬間、日村は吠えた。

「なんだぁ?お前、俺にケチつけるのか!」

「え?」

「お前に力がないのが悪いんだろう!なんなんだお前は!」

「いや僕が言いたいのは…」

日村は敦の言葉など聞きもせず一方的にまくし立てた。地雷を踏んだか…敦は後悔したがとりあえず日村がわめき終わるのを待って、文句があるとかではなく日頃一緒にいないから自分が距離感を掴みづらいのだと言った。

「だったら最初からそう言え!まるで2年どうにかしてくれって言ってるように聞こえるだろが!」

いや、どうにかしろよ。授業態度悪すぎるだろう。敦は、この日村がとんでもなく面倒くさい奴だと認識を改めた。そしてある日の休み時間、日村と2年生の中でも授業態度がとても悪い大倉という女子生徒が話をしている脇を通りがかった。大倉は敦に気づくと日村に向かって、

「あの人マジ嫌い。頼りない」

と敦を指さして言った。明らかに聞こえるように。急になんだ?驚いて一瞬足を止めた敦の目には、日村が大倉に向かって『まあちょっと我慢しとけって。俺がきつく言っといてやるからよ!』と笑っている姿が映った。最早安心できる場所など、ここにはない。敦は足早にそこを去った。翌日以降、大倉は授業開始と同時に私語を始めたり廊下を誰かが通り過ぎるたびに大きく手を振ったりしてますます手がつけられなくなった。日村は勿論、陣内や岸川も助けてはくれなかった。そして遂に大倉のクラスの担任である上杉に、我慢の限界なのでキレてもよいかと相談した。上杉は、

「やった後、ちゃんとアフターケアできるの?できないのに勝手にやられるのは担任として困ります」

と強い口調で言った。まるで実力のないお前に怒る資格もないと言われているようで、敦はますます迷路に迷い込んでいた。

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