1章2節 伏線は最初から張られていた

3月の後半に、敦は再びZ中学校に呼ばれた。押印しなくてはならない書類があるらしい。朝の8時半にと言われていたが、10分前には到着した。春休みに入っていて、学校はとても静かだった。再び大澤に用件を伝えると、大澤はああこの前のと覚えてくれていたようだった。

「ら、来月からよろしくお願いします!」

「あ?ああ、こちらこそよろしくお願いします」

前回は校長の峯本と話しただけだったが、ずっと笑顔だった峯本から学校現場に対する不安や心配がメディアの誇張だったのではないかとすら思えた。或いは、俺はとても良い学校に入ることが出来たんじゃないかと思っていた。だからこの大澤も身体が大きくて無表情なのでちょっと怖い感じだが、きっといい人なのだろうと敦は勝手に安心していた。

通された控え室で、副校長の山岡と初めて顔を合わせた。今日は峯本校長が不在だという。山岡は大澤と親しく会話をした後、敦に勤務時間や出勤簿の押印などの説明をしてくれた。そのあとはいくつかの事務手続きをして、学年主任と教科主任に会ってもらうという。いよいよ教師人生のスタートだな、敦は気持ちがますます高ぶっていた。


最初に現れたのは、40歳前後の大柄な男だった。席を立って挨拶しようとした敦を手で制して座らせると、ドカッと座った。

「し、4月からお世話になります芦田です!」

「数学科主任の難波です」

難波と名乗った男はいきなりプリントを見せた。

「ウチの学校の数学科は、先生を入れて来年度は4人が選任。講師の先生が2人で合計6人だから」

「ハ、ハイ!」

「中学校初めてだっけ?今どこの中学校も数学は習熟度別なんだよ」

「習熟度別…」

そんなこと大学の教職課程の授業でも言われなかったな、と敦は思った。10年あまり前、自分が中学生の頃はそんなものはなかった。敦は母校でもある千葉県の私立高校で教育実習をしており、その時は帰国子女の生徒のみ特別クラスで授業をしていたが他は一斉授業だった。全くピンとこなかった。

「うん、そう。…で、ウチはその中でも少し独特でね」

難波はZ中学校の数学の授業形態について敦に説明してくれた。要約すると単元ごとに習熟度別クラスを分けるが、単元の最初は一斉に授業する。そして単元の途中、そろそろ差がついてくるかなというタイミングを毎週3回あるミーティングで話し合い習熟度別授業になるのだという。毎回の授業は2つのクラスを同時にやるが、それぞれのクラスを上中下の3つに分けて上と下は2つのクラスを合体させる。真ん中のコースは単体で授業するという。

「わかりました!」

「俺は10年前に採用されたから今はわからねえけど、新採の年は毎月研修があってレポート書くし、夏休みも研修や合宿があるからかなり忙しいよ」

「そうなんですか…」

「校内と学年の仕事もあるし、異業種研修とかもあったから。授業の準備なんかなかなか出来ないと思った方がいい」

「…」

「ウチの数学科は区内でも一番厳しいと思うけど、一番ちゃんとしてる。俺達はいちいち手取り足取り教えないけど、ちゃんと背中を見て盗んで欲しいかな」

「わ、わかりました…!」

この難波には随分と厳しい印象を受けたが、敦は『自分は厳しい環境の方が伸びる』という確信があった。やってやるぜと強く思った。


難波が席を立つと、しばらくしてやや小柄な50歳前後の男が入ってきた。

「あぁ、香川です。よろしく」

挨拶すると相手はそう名乗ってドカッと座った。4月から敦が入ることになる学年の学年主任だという。

「俺も新人3人てのは経験がないんだけど、4月からのウチの学年はあなたも含めて3人新採がいる。男は俺達含めて3人で、女の先生が6人」

香川は声が大きくガラガラ声で話すため、敦はこの人は不機嫌なのかと少し不安になった。また座り方も思いっきりふんぞり返って座るため威圧的な印象を強く受けた。

「さっき難波と話したと思うけど、私も数学だから」

「そうなんですね」

「まぁ俺も口が悪いから色々厳しく言うと思うけど、あなたを個人攻撃してるわけじゃないから」

「わ、わかります!」

「ま、楽しくやろうや」

「ハ、ハイ!」

香川の話が終わると、先程の山岡副校長から今日はこれで帰るように指示された。次は4月1日に初出勤だという。

「あ、あの…!」

敦は最後に香川と山岡に声をかけた。父親から、直接世話になる人にはキチンと挨拶をしておけと言われたことを覚えていたのだ。

「これまでに講師の経験とかありませんのでご迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお願いいたします」

「ハハハ、誰だって最初はみんなそうじゃねえか!」

香川が豪快に笑った。敦はあぁ、本当にいい学校に入れたんだなと安心した。時期は3月下旬。そもそもまだ教師になってすらいない敦に、厳しくする理由など香川や難波には全くなかったのだ。口が悪いから厳しく言うかも知れない、それがどの程度のことなのか敦にはわかるはずもなかった。

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