1章1節 足を踏み入れた日

2007年3月、芦田敦は採用の決まったX区立Z中学校の門をくぐった。正式な勤務は4月1日からだが、校長との面接があったのだ。敦は胸の高鳴りを止められずにいた。難関と言われた教員採用試験に一発で合格し、大学院を修了していよいよ社会人生活が始まるのだ。

「す、スミマセン。わたくし4月からこ、こちらでお世話になります芦田という者です。こう、校長先生にご挨拶にうかがいました!」

受付にて緊張のあまりどもりながらも名乗ると、大柄な男性が現れ、無表情で

「こっちだよ」

と言った。そのまま一室に通され、待つように指示された。今、別の人が校長との面接をしているのだという。

「休んでな。呼びに来るから」

用務主事の大澤と名乗った男は扉を閉めた。しばらくすると再び大澤が現れた。俺の番か!と敦が立ち上がりかけると、大澤は手で制して後ろにいた男を部屋に通した。

「ここで待ってて下さい。そこの芦田さんの次に呼びますから」

大澤に連れられてきたのは眼鏡をかけた30代半ばくらい。痩せ型でいかにも切れ者感がある。

「は、初めまして。新規採用の芦田です」

「どうも。数学の講師として4月からこちらで働くことになりました関根です」

男は名乗って静かに会釈した。敦が自分も数学の教員であることを伝えると、関根は以前どこの学校だったのかと続けた。自分は大学院で教員免許を取ったので、講師はやっていませんと敦が答えると

「へぇ…じゃあ一発で合格したってことですね…」

と関根は呟いた。何となく言葉の裏に含むものを感じたが、敦にはどうすることも出来なかった。


大澤に連れられ校長室に通された。校長の峯本は、まだ4月からの人事は何も決まっていないと言った。何かあったのか峯本は終始機嫌よく、ずっと笑顔だった。そしてこれから1年間、ここまで笑顔で峯本が敦と話す機会はこの日が最後でもあった。

「いきなり担任ということはないと思うが、まだ学校全体のことが決まってないからな」

「ハ、ハイ…!」

「4月の初勤務までには決まっているから、多分もう一回来てもらうと思うよ」

「わ、わかりました。よろしくお願いします!」

「ウン、じゃあまた。今日は帰っていいよ」

こうして敦にとって、Z中学校へ初めて足を踏み入れた日は終わった。これからの1年間、敦が経験することの過酷さはこの時点で微塵も感じ取ることは出来なかった。

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