1章4節 ひと月目は怒濤のように

4月6日から学校が始まり、敦は教師としてのスタートを切った。船出は文字通り、荒波に飲まれていた。

まず授業である。1年生の副担任となった敦は、基本的に香川と関根、そしてもう1人の講師である八谷と4人でチームを組んで1年生の授業を受け持つ。そして5月までは習熟度別学習はやらず、まずはクラス授業で中学校に慣れさせるということだった。この授業が、本当に上手くいかなかった。

最大の要因は、敦自身が全く先を見通して授業を計画できなかったことだ。この単元をこの時期までに終わらせるにはこの小単元をいつまでに…といったことを考えなくてはならなかったが、経験不足の敦は時間をかけすぎてしまったり逆に説明が不十分だったりして思うように授業を進められなかった。塾でとっくに勉強が進んでいる生徒もおり、彼らは最初から授業を聞いていなかった。わからない生徒は、ひたすらわからないわからないを繰り返した。どこに授業の重心を置くべきか、敦は悩んでいた。

そして生徒達は、瞬時に教師の力関係を嗅ぎつけた。香川がこの学年で一番偉い、そしてみんな香川の顔色をうかがっている。そして芦田は若いからチョロい。間違いなく多くの生徒がそんな感じで授業を受けていた。敦が教壇に立って授業をしているとワーワー騒ぐが、香川が廊下を通ろうものならシーンと静まり返る。

「お前らは犬か。そんなコロコロ態度を変えるような奴は、人として信頼されないぞ!」

そんなことを言っても、生徒達に何一つ響いていないのは明らかだった。また生徒の中には

「あっちゃん、教え方下手なんだよ!」

と言ってくる者もいた。12歳の子どもからあっちゃん呼ばわり。しかし授業については自覚もあるため真に受けてしまい、まさに負のスパイラルだった。敦は完全に1ヶ月で、1年生から舐められていた。


次に部活動である。無事サッカー部の副顧問となり、新学期が始まってすぐ練習に参加した。そして1ヶ月で一気に、もう部活に行くのがいやになってしまった。

理由は大きく分けて3つある。1つ目は部員との距離感だった。元から部に所属している2年生、3年生は敦を異物のように扱った。どちらの学年も2、3人の例外を除き誰も敦に話しかけてこない。敦の方から話しかけても、ひと言ふた言で去って行く。特に3年生のレギュラークラスは、まともに敦と話そうともしなかった。そして1年生は、日頃から既に敦を舐めている。練習中、入部間もない白川という1年生が打ったシュートに対して

「ナイスシュート!」

と声をかけたところ、

「は?別にナイスじゃねーし」

と返された。キレた方がいいのか、流石に敦も迷った。しかし迷っている内にタイミングを逃す。部活の醍醐味とは、部員との関わり合いではないのか。どうやってこの距離を縮めていけばよいのか、まだ敦には皆目見当もつかなかった。

2つ目の理由は、部の体質そのものである。部活に参加するようになってすぐ、敦は岸川が会ったばかりの頃に言っていたことを思い出した。

「指導も采配も、コーチに任せているんだ」

サッカー部のコーチは梶原という、50代前半の小柄な男性だった。グラウンドに行くといつも、梶原がいた。そして岸川は毎日練習が終わる5分前くらいまでグラウンドに来なかった。大会前や練習試合の前でも、それは変わらなかった。一体何がそんなに忙しいのか。逆に敦は毎日グラウンドにきている自分が間違っているのではないかという不安に駆られた。

梶原は大会に向けてフォーメーションを決め、スタメンを組んでいく。試合中も岸川は声こそ出すが、采配は本当に梶原が振るっていた。敦は采配自体に口を挟む気はなかったが、この状況に自分や岸川は何なのかと疑問をもった。梶原自体は豪快な人柄で敦もすぐ打ち解けたが、部員達は基本的に岸川や敦よりも梶原のいうことを聞いた。態度の悪い部員を注意しても「梶原さんには何も言われていないんで」と言われる。同じことを梶原が注意すれば、その部員もその場はすぐ止めた。そして梶原の目が離れると、再び繰り返す。

「お前舐めてるのか」

流石に敦が詰め寄ると、だって芦田先生より梶原さんの方が偉いじゃんと言ってきた。梶原の他にもコーチは2人いた。1人は卒業生で20代前半の風見。もう1人は3年生でキャプテンの野田の父親だった。風見は学生時代オランダに留学した経験もあり、とんでもなくサッカーは上手かった。野田の父親は元々、梶原の同級生だった。当初は岸川に請われて試合の時の審判を手伝ったりしていたが、当時のZ中学校サッカー部がとてもだらしなかったため岸川に梶原を紹介したのだという。野田の父親は梶原以上に豪快な人柄で、練習がたるんでいるとよく雷を落とした。2人のおっかないサッカーオヤジとサッカーが上手くて優しいお兄ちゃんというコーチ陣。正顧問である岸川ですら、部活に来ないためか存在を軽んじられている。そこに新米で何をしたらよいのか迷いまくっている敦の居場所などなかった。

3つ目に、拘束時間の長さだ。4月の3週目から大会が始まり、土曜だけでなく日曜も引率の仕事が入った。しかも朝早い。平日は6時前に起きて7時前に家を出る生活だったが、朝一番の試合になると会場が遠いため6時過ぎに家を出ないと間に合わない。敦は実家暮らしだったため母に引率の時はコンビニでパンでも買っていくからと言ったが、母は起きて軽い朝食(トーストとコーヒーだけだが)を用意してくれた。試合が終わっても今度は審判がある。ライセンスのない敦は笛を吹く代わりに部員達のお守りであった。1時間くらい試合も何もない部員を待たせるのは本当に大変だった。特に試合をしていた部員達はまだいいが、試合に出ていない者達は力を持て余している。走り回ったり騒いだり、喧嘩をし始める者までいた。それを注意していると、また別の場所でふざける部員が続出する。一度練習試合で主審をやったが、審判をやっている方がよほど楽だった。

全てが終わって帰宅する頃には、もうお昼を過ぎている。翌日に向けて授業準備などやっていたら、もう1日が終わる。1週間の疲れが全く抜けないまま、新しい1週間に突入するのだ。香川や難波といった先輩達のタフさが信じられなかった。



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