プロローグ

「それではここからは、卒業生の保護者の皆さんにコメントを頂きましょう!私がマイクを持っていきますよー!」

2008年3月某日。都内の某ホテルのレストランで、X区立Z中学校の『卒業を祝う会』が行われた。午前中に卒業式があり、夕方から移動して会が行われる。人生で初の、『教師として迎える卒業式』を終えて26歳の新米教師・芦田敦はグッタリしていた。第一学年の副担任である敦が卒業式で与えられていたのは記録の仕事。ビデオカメラの確認とデジカメでの撮影を、式の間中繰り返した。仕事が大変だったわけでは全くない。今日も朝から怒鳴られ続けて、気分的に参ってしまったのだ。


9月のある頃から始まった、学年主任・香川による『敦潰し』はおめでたい行事の日であっても関係なかった。朝出勤した敦は体育館のギャラリーにビデオカメラをセットし、次に充電中だったデジカメを取りに職員室へ戻った。酷い花粉症だった敦が戻ったついでに鼻をかんでいたところに香川がやって来た。ヤバい!本能的に察したが、手遅れだった。

「芦田さんさあ、こんな日に何で仕事もしないで職員室でフラフラしてるわけ?!」

「えっ…いや、その…」

この敦の態度も、香川にとっては苛立つものだったのかも知れない。敦の同期である2人の名前を挙げて更に嫌味を言った。

「渡邊さんは体育館行ってるし、本田さんは上行って早く来た生徒の対応してるけど?」

俺はサボってるわけじゃない。ちゃんとビデオをセットしたり会場準備をしていた。たまたまここで鼻をかんでたらアンタが来たんじゃないか。内心毒づいた敦だったが、ここで何を言っても詰んでいることくらいもうわかっていた。

すぐ体育館に向かおう。そのためにデジカメを持って…だが次の瞬間、香川が大きく舌打ちした。近くにいた教員に向かって言う。

「チッ、シカトしてやがる…」

自分に向けられた言葉だと気づき、敦はさすがに慌てた。香川のことは本当に嫌いだったが、少なくとも反抗的な態度をとることだけはしないでおこうと思っていたからだ。

「あ、いえ聞いてます聞いてます。今カメラを取りに来たところだったんです。すぐ体育館に向かいます!」

香川はそれでも気に入らないなという顔で、敦を睨んでいた。敦は走って体育館に向かった。香川に話しかけられた教員は、敦がサボっていたわけではないと知っていたはずだったが何も言わなかった。

言いがかりにもほどがあるだろ。敦は悔しさと不安と、情けなさで破裂しそうになっていた。教師になった1年目からこんな目に遭うのだから、これから先の自分は大丈夫なんだろうか。相手は50歳を過ぎている。喧嘩したら自分が勝つに決まってるんだから、ブチ切れてやったらよかったんじゃないか。いや、そんなことしたらその後が恐ろしい。じゃあ泣き寝入りしかできないのか?!って言うか何で誰も取りなしてくれないんだよ!

卒業式が始まった。共に素晴らしい夏を過ごしたサッカー部員達や、運動会や授業など様々な場面で関わってきた3年生達が卒業証書をもらっていく。敦はうつろな気持ちのままそれを写真に納めていった。卒業生が退場するとき、サッカー部の桃井がギャラリーにいた敦に気付きニヤリと笑って軽くピースした。応えようとしたが香川が見ていたら間違いなくまた怒鳴られる(厳粛な式なのに何ピースなんかしてんだよ!とでも)のが目に見えていた。敦は軽く微笑んで『卒業おめでとう』と内心呟いた。


その後はとにかく香川の視界に入らないようにだけ心掛け、片付けにもいち早く向かった。昼食会のときも端っこで目立たないよう、顔も上げずに弁当をかき込んだ。笑うと目立つと思い、なるべく喋らなかった。そうして半日が過ぎると、もはや疲れ切っていた。『卒業を祝う会』になど行きたくもなかった。早く帰りたい。

『卒業を祝う会』の会場に着くと、学年ごとに座らされた。絶望的な気持ちになったが、幸いにも自分の両隣は右に同期の体育教師である本田、左に自分が副担任として入っているクラスの担任の加藤だった。香川は本田の右隣に座っていた。敦はひたすら香川の視界に入らないよう、身を縮めていた。


卒業生の3年間を振り返るスライドや第3学年の教員の出し物などがあり、『卒業を祝う会』も後半に入った。保護者代表の石山が、マイクを持って会場後方の席に座っていたある女性のところで立ち止まった。それはちょうど敦が右に首をひねれば見える位置だった。女性は「はい」と言って静かに立ち上がった。

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