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北大路魯山人風に崎陽軒を語る

前口上

 こんにちわ。皆さんは明治から昭和にかけ活躍した、かの高名な芸術家にして美食家、北大路魯山人をご存知でしょうか?美食家だけに料理に関する本も執筆されてまして、その本が物凄く面白い。なんでかと言うと文体がメチャメチャ偉そうでつい癖になるんですね。私もちょっとそんな文体を真似て食に関する記事を書いてみようと思った次第。ここからは北大路魯山人の霊に取り憑かれて書く事なので、どんだけ偉そうに書いてあっても私ではありません、悪しからず。

シウマイ弁当という形而上の問い

 新幹線には崎陽軒が似合う、私の持論である。他にも沢山、美味い弁当はあり、味の点で崎陽軒を上回る物も多い。事実、行列が出来るのはそういった店の方である。

 だがしかし、私は声を大にして言いたい。すなわち崎陽軒シウマイ弁当とは『完成』と言う形而上問題を我々に突き付ける小宇宙であり、他の弁当とはどだい問題が違うのである。仮にそれがいかなる美味であったとしても人を思索の深淵に誘うスフィンクス足りえるか?私が問題としたいのはその点である。

 崎陽軒シウマイ弁当はオカズと米のバランスが完璧である。米は俵形に切り込みが入っており分量ペース計算への配慮が偲ばれる。濃いめに味付けされた小さな筍の欠片達も味の濃淡宜しく調整するにあたりもってこいの品である。こうした幾つかの配慮のおかげで、オカズ、米、どちらかが残ると言う事はなく、この完璧なゲームをどう攻略するか、思考を働かせながら食す内に知らず知らず、ある哲学が己の内に醸成されていくのを認めざるを得ない。

 主たるシウマイに加え焼き魚や唐揚げなどの調子の高い弁当オカズには事欠かず、そのどれもが飯の旨さを引き立てる。何度喰っても私はこの完成された小宇宙を前にどう食べ進めるのが完璧であるか、答えのない問題に心嬉しくも翻弄されるのである。これは食事というよりはもはや取り組み、と言った方が適切な様に思われる。

 いかなる取り組みにおいても必ず決まっているのがアンズを最後に食する事である。この干しアンズは浮ついたデザートの類にあらず、真摯な取り組みの後の残心の趣にも似て、次の取り組みでは今を上回る完璧な食し方を志す気持ちにまで繋がる食後の要石とでも言うべきもので、日本人らしいゆかしき配慮である。

 もう一つ、これは『噛み締める』弁当である事も重要な要素である。固めに炊かれた冷飯は噛み締める事で暖かいメシとはまた違う滋味を生じさせるものである。シウマイ弁当は決して温めて食うものでは無いと如何なる場合においても肝に命じるべきである。

かつて漫画作品「包丁人味平」で世を席巻したビッグ錠氏の名言に「冷飯はレンジで暖めちゃいけねえ、味が抜けちまう」というものがあり、私も全く諸手を挙げて賛同の意を示す者である。事実、上手に炊かれた飯であれば冷えていればこそ、しっかりとした素性を噛み締めることが出来るというものだ。

 噛み締めながら、流れる新幹線車窓の景色を眺める、やがては景色をも噛み締めているかの様な三昧の境地に入る事こそ、シウマイ弁当の醍醐味である。ここにただ美味いだけの弁当と一線を画す般若の智慧がある、と言っても良いだろう。

 尚、崎陽軒にはシウマイ弁当とシウマイ炒飯弁当があるが、この上下を論ずるのはウルトラマンとウルトラセブン、どちらが傑作かを論ずると同程度に無意味である。


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