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同じ旗のもとで、ちょっとお茶するくらいがいい 【後半】

自分の幸せを最優先に

先日。
当事者セラピストである友人が…
「今は自分の幸せを最優先に考えることができている」と話していた。
かつては、自身が病気になった理由を探求し、積極的に当事者体験や内面を語り、誰かの役に立てたらいいな…と願っていた友人だ。
そんな友人が今は探求心や役割意識ではなく、とても自然体で穏やかに“自分自身の幸せ”を考えられている…ということを聞いて安堵した。

「本研究における当事者セラピスト」について、「疾病・障害体験を持ち、社会にあふれる生活課題を当事者として主観的に捉え、セラピスト(専門職)として客観的に評価し、当事者性とセラピスト性(専門性)を相互活用して解決に取り組んでいく、リハビリテーション専門職(OT、PT、ST)」と再考した。

*ダーヤマ注釈:下記の卒業研究において「当事者セラピスト」とは何なのかを再定義した*

・山田隆司(2018)『当事者セラピストが持つ「当事者体験」への認識とその活用からの社会的役割の構築についての考察』 日本福祉大学福祉経営学部 医療・福祉マネジメント学科 卒業論文

それぞれのいろいろな思惑

当事者研究や“わたころ”活動の一部には、確かに「自分の体験が誰かの役に立つといいな」という思惑がある。自身の当事者体験を語ることには、きっとそれぞれにいろいろな思惑があるだろう。

人によっては、必死に自己肯定感を高めようしているのかもしれない。
人によっては、誰かに自らの語りを聞いてもらいたいのかもしれない。
人によっては、自身の体験を外在化し客観視するためかもしれない。
人によっては、同じような体験をしている人と繋がりたいのかもしれない。
人によっては、純粋に当事者体験が何なのか知りたいのかもしれない。

では、自分にとっては?
自分は、純粋に誰かの体験や想いに興味や関心があるから聞いてみたい。
自分は、みんなの語りを集めることで次に続く誰かに近道を作れないかと考えている。
自分は、誰かの体験がきっと他の誰かの生きるヒントになると感じている。
自分は、必死な時期を過ぎ自分の幸せを穏やかに感じている誰かとお茶を酌み交わしたい。

ではでは、かつての自分は?
病気や障害の意味を必死に追い求めていたし、自己肯定感のために必死に行動し続けていたし、自分を知るためにがむしゃらに学びを深めていたし、自分の体験を語り続け客観視を繰り返していたし、自身の存在をかつて否定してきた社会に一矢報いたいと考えていたし、自身の価値を他者に値踏みされていたことへ抗いたかったし、無理してでも自分の当事者体験に意味や役割をつけようとしていた。

おちょこでコーヒー「おちょコーヒー」は、挿しつ挿されつのコミュニケーション。

お茶しましょう

友人のホッとした一言がとても嬉しい。そしてその一言は、自分自身の在り方も振り返る機会になった。

今の自分はというと…
とても「自然体な自分」で“ここ”にいるのではないかと感じている。かつてのような必死さや悲壮感は小さくしぼんできたのではないだろうか。みんなの目にはどう映るだろう?

当事者と支援者という二つのアイデンティティを持ち合わせることは、決して誰かより「偉い」とか「恵まれている」ことではない。時に煩わしくもあり鬱陶しくも感じるし、心は時々大きな波にもまれて散り散りに沈んでいくことだってある。
それでも今は「それでいい」「そんな自分でいい」と言える

素直な気持ちで、誰かの語りに耳を傾けていきたい。
奢ることなく、自分自身の役割をこなしていきたい。
そして上記のようなとりとめない感情やどうでもいい分析を、誰かと語り合い分かち合いたいなと思う。

『当事者セラピスト(当事者支援者)』という旗の下で集って、のんびりお茶しましょう。
「わたしたちが当事者だったころはねぇ…」って、ボツボツ話しましょう。
ぜひぜひしましょう。
ぜひしましょう。


*ダーヤマ:4歳頃からシャルコー・マリー・トゥース病による四肢遠位や呼吸筋の進行性麻痺あり。2児の父。作業療法士(あんまり臨床に関われていない…)。梅雨は全身脱力して、息もタエダエ手足ダルダル。



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