論文要約:我々の普段の行為は演技か?

今日、大学で「日仏演劇論」という授業の初回講義があった。

正直、履修するつもりはあまりなかったが、受けてみてちょっと衝撃を受けた。
この授業では文字通り、日本とフランスの演劇の比較はもちろん行うのだが、それよりも授業担当の教員が熱心に語っていた、演技の背景にある哲学的考察が非常に魅力的だった。

ここでは授業内での議論を一部紹介し、それを深めていきたい。

教員が提案していた話題の中で面白いなと感じたのは、大まかにまとめると「我々は俳優ではないにしろ普段から演技をしている存在であり、だからこそ他の芸術と違って演劇は素人目線からでもダメ出しができる」という話である。
後半部分の、演劇は素人目線からダメ出しできるというのはなんとなく理解できる。演劇の教育なんてまともに受けたことはないが、自然な演技、不自然な演技というのは感覚で理解できる。

私が関心をもったのは話の前半部分の、「普段の我々の行為は演技である」とする主張である。はたしてこれは真と言えるだろうか。

「普段の我々の行為は演技である」とまでは言わないにせよ、我々の行為の一部は演技である、とする主張は、例えば田村(2010)によってなされている。本記事ではこの田村の議論を途中まで追っていく。


田村は、「人間の行為は常に<本気の決定>に由来するのではなく、しばしば<ゴッコの決定>に由来する」と主張している。

では、<ゴッコの決定>とはどういう判断を指すのか。本文では以下のよう場面で<ゴッコの決定>が表れると述べられている。


ある人があなたの目の前に空のグラスを二つ置き、さらに空のペットボトルを手にとって、二つのグラスのそれぞれに液体を注ぐ動作をしてみせる。次に、その人は、一方のグラスを手にとり、ひっくり返して中身を空ける動作をし、元の場所にもどす。そして、「どっちのグラスが空でしょう?」とあなたに尋ねる。あなたは容易に回答できる。むきだしの事実としては両方のグラスが空である。だが、一連の身振りによって意味される虚構の設定においては、ひっくり返されたグラスだけが空である。「どうぞ中身の入っている方をお飲み下さい」と要請されてそちらを飲む身振りをすることも、ごく容易である。このとき、あなたは<ゴッコの決定>に沿って判断し、行為している。

田村均(2010)「自己犠牲的行為の説明-行為の演技論的分析への序論」p.262より

この2つのワイングラスの例では、<本当の決定>で判断する場合、むきだしの事実であらわれているようにどちらのグラスも空である。しかし、<ゴッコの決定>で判断する場合、ひっくり返されたグラスのみが空なのである。
さらに、田村は<ゴッコの決定>と<本当の決定>を以下のように特徴づけている。


大まかに特徴づけるなら、<ゴッコの決定>とは、発話や身振りによって虚構を設定し、その設定の中で何かを<よい>と考えて行為する状況を言う。これに対し<本気の決定>とは、実在するむきだしの事実を前提し、その前提の上で何かを<よい>と考えて行為する状況を言う。いずれの決定においても、<よい>という賛成的態度は共通であり、どちらもそれなりに合理的である。だが、<本気の決定>は唯一の現実性に対する唯一の人格的決定であるのに対し、<ゴッコの決定>はありうるさまざまな虚構性に対する複数の演技的可能性の一つなのである。

田村(2010)前掲書 p.262より

以上まとめると、<本気の決定>は、実在する事実に対してその事実に基づいた上で最善の判断をすることであり、<ゴッコの決定>は実在する事実に加えて虚構の設定に基づいて最善の判断をすることである、と言えよう。

では、田村の主張である「人間の行為は常に<本気の決定>に由来するのではなく、しばしば<ゴッコの決定>に由来する」は、どのような根拠の下で述べられているのか。

田村は、<本気の決定>だけでなく、<ゴッコの決定>を導入しないと定式化できない行為の1つとして、「自己犠牲的行為」を挙げている。

ここで、身近な自己犠牲的行為の例を考え、<本気の決定>だけで十分に説明できるかどうかを考えてみる。
・自己犠牲的行為の例
 「ある女性Aさんがいる。Aさんは子育てに専念するために、自らのキャリアを犠牲にした。」

この例の場合、<本気の決定>は、
(ア)「子育ての専念」
(イ)「キャリアの追求」
のどちらがふさわしいだろうか。場合分けして考えてみる。

①(ア)が<本気の決定>である場合
この場合、「子育ての専念」がAさんにとっては最も<よい>ことだと考えていて、Aさんが本気で望むことを実現できた状態である。しかしこの場合、「自らのキャリアを犠牲にした」というのが言いづらくなる。Aさんは自分の考えで自分の望みを達成した、という意味で合理的であり、ここで自己は犠牲にしていない。つまり①は的外れである。

②(イ)が<本気の決定>である場合
この場合、Aさんは自分にとって最善の選択肢を断念して他人に貢献している。その意味で自己犠牲的である。しかし、Aさんは自分で考えた<本気の決定>を自分で裏切っていると考えると、非合理的な判断と言わざるを得ない。
だが、例で挙げたAさんの行為は、それほどわけの分からない非合理なものとは言えないだろう。となると、②も的外れである。

③(ア)と(イ)両方が<本気の決定>である場合
この場合、Aさんは自分にとっての最善を断念し、子どもにとっての最善を優先したと言える。ここで、(イ)「キャリアの追求」の断念が自己犠牲を、(ア)「子育ての専念」の選択が合理性を成り立たせる。
しかしこの③では、2つの選択肢の決定過程を説明できていない。(ア)も(イ)も両方<よい>ものとして考えた場合、選択者であるAさんは2つの選択肢の間で引き裂かれたままであり、田村の言う<本気で決意する主体>になり得ない。

以上のように、「行為は、その人がそれを最もよいと考えてそうしようと決意した、というその人の<本気の決定>によって分析され、説明すべきだ」という考え方を用いる場合、少なくとも自己犠牲的行為はうまく説明しきれない部分が出てくるのである。

<本気の決定>だけでは自己犠牲的行為が説明しきれないことが分かったところで、ではどのようにして<ゴッコの決定>によって自己犠牲的行為が説明可能になるのか。

続きは次の記事で


参考文献
田村均(2010)「自己犠牲的行為の説明-行為の演技論的分析への序論」『哲学』2010巻, 第61号, pp. 261-276,
https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy/2010/61/2010_61_261/_pdf/-char/ja

ここまで読んでくださりありがとうございました。