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第1回 映画誕生前夜

さて、記念すべき「観ながら学べるサイレント映画史」の第1回ですが、さっそく映画史の大きな問題から始まります。みなさんは映画の歴史の始まりと言われていつを思い浮かべるでしょうか?映画史に詳しい方であれば、フランスのリュミエール兄弟がシネマトグラフをお披露目した「1895年」と回答されることと思います。この事実自体は歴史的に正しいのですが、ではそれでもって1895年が映画の誕生の年であると簡単に言い切ってしまっていいかというと、ことはそれほど単純ではないのです。

投影式シネマトグラフとのぞき見式キネトスコープ

そもそも、動画を見る装置自体はアメリカの発明王エディソンがリュミエール兄弟に先立って開発していました。エジソンが開発した動画再生装置はキネトスコープと名付けられ、1893年のシカゴ万国博覧会に出展されました。ですが、実はこのキネトスコープよりも後述するリュミエール兄弟のシネマトグラフのほうが「映画の誕生」について語るときはより頻繁に言及されます。なぜでしょうか?実は、リュミエールの投影式の映画とは違って、エディソンのキネトスコープは「スコープ」という単語からわかるように、一人用の覗き見式の映像装置だったのです。下図のように、キネトスコープは簡単に言うと「大きな箱の中で回転しているフィルムの映像を覗き穴から見る装置」だったのです。この装置は商店の店先などにおかれるようになり、観客はお金を払ってキネトスコープの中をのぞき見て、数十秒の映像を見ることができたのです。キネトスコープは瞬く間に人気を博しすぐにアメリカ全土の主要都市におかれることになったのです。ところがキネトスコープの人気は数年間しか続かず、リュミエール兄弟のシネマトグラフのような投影式の映画装置に取って代わられることになったのです。

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エディソンのキネトスコープ

(Albert Tissandier artist QS:P170,Q2831583, Kinetoscope, marked as public domain, more details on Wikimedia Commons)

元画家でダゲレオタイプを用いた写真館を経営していた父の元に生まれたオーギュストとルイのリュミエール兄弟はリヨンでガラス乾板や写真器材の工場を経営していました。彼らはどうやら1894年頃にはエディソンのキネトスコープを見ていたようで、この覗き見式の装置に触発され、スクリーンへの投影型の機械を発明し観客の前で上映し料金をとることを考えました。1895年12月28日にパリにあるグラン・カフェの地下でお金を払って入場した観客の前で、リュミエール兄弟は彼らの新発明であるシネマトグラフを使って動画の上映会を行ったのです。

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リュミエール兄弟のシネマトグラフ

(Louis Poyet creator QS:P170,Q22713349, CinematographeProjection, marked as public domain, more details on Wikimedia Commons)

キネトスコープとシネマトグラフは動画を見せる装置であるという点では同じですが、観客との関係で大きな違いがあります。上述のとおり、キネトスコープは個人向けの視聴を想定していたのに対して、シネマトグラフは大勢の観客の前での投影を前提としていました。20世紀の映画の歴史を概観したときに、その歴史の大部分は、劇場に集まって料金を払う観客を想定したものでした。このような映画の興行の歴史の起源と言う意味で、リュミエールのシネマトグラフのほうがエディソンのキネトスコープよりも重要視されてきたのです。しかし、20世紀の後半、特に家庭用のビデオ装置が普及してからは、映画や映像の視聴は必ずしも劇場に固定されたものではなく、個人的な視聴体験もごくふつうに行われるようになり、その意味でエジソンの発明の意義が再評価されました。

視覚の生理学と映画誕生以前の視覚装置

投影式シネマトグラフとのぞき見式キネトスコープのどちらから映画の歴史を語り始めるかという点だけでも厄介なのですが、他にも検討すべき歴史的事実はたくさんあります。1895年が記念碑的な年号であることは間違いないとしても、何も映画は19世紀の最後の10年間でぽっと出てきた訳ではなく、19世紀全体を通した生理学的・技術的探求の結果として結実しています。

映画の技術的発明に先立って、生理学の分野では、残像効果の研究が進められていました。残像効果とは、人間がものを見たときに見たものの像が網膜上にある一定の時間残存してしまう現象のことです。わかりやすく言うと、夜火のついた花火をすばやく振り回すと先端の火花の部分が帯状に浮かんで見える現象のことです。この現象をうまく利用すると、静止画の連続を動画として錯覚させることができます。つまりぱらぱら漫画と同じ理屈で、連続的に変化する静止画像を短い時間間隔で提示すると、人間の脳は自動的にそれぞれの静止画像の間にあるギャップを補い、それらを連続的な動的なイメージとして認識するのです。この現象を発見した科学者の中には、この現象を利用した視覚装置を作ることを考えた人たちもいました。例えばベルギーの数学者ジョゼフ・プラトーは1832年にフェナキストスコープを、イギリスの数学者ウィリアム・ホーナーは1833年にゾエトロープを発明しました。どちらの装置にも複数のスリットとそれらに対応した複数の像が描かれており、その装置自体を回転させることでスリットから見える像が素早く連続的に変化し、動的なイメージを見ることができるという仕組みです。このような視覚装置は19世紀全体を通して作られ、映画の発明以前から動画を楽しむ環境は少しずつ整えられていました。

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ジョゼフ・プラトーのフェナキストスコープ

(Unknown author, Phenakistiscope, marked as public domain, more details on Wikimedia Commons)

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ゾエトロープのレプリカ

(anonymous, Zoetrope, CC BY-SA 2.0, more details on Wikimedia Commons)


エドワード・マイブリッジの実験

このような残像効果についての研究や残像効果を利用した視覚装置の発明が、カメラの歴史と結びつくことで、映画の実現が一歩近づくことになります。フェナキストスコープやゾエトロープはあくまで絵が動いているように見えるだけで、現実をそのまま切り取ったものではありません。映画はご存知の通りカメラで現実の世界をありのままに捉えたものです。このギャップを埋めたのが、複数のカメラを使って連続的な像を撮影することに成功したカリフォルニアの写真家エドワード・マイブリッジです。

マイブリッジは1872年に現在のスタンフォード大学の創始者でもある鉄道王スタンフォードからある依頼を受けます。スタンフォードは友人たちと「馬がギャロップをしている間、その四本の足がすべて地面からはなれている瞬間があるかどうか」という内容で賭けをしていました。マイブリッジへの依頼とはその賭けの結果を実際に写真に撮って明らかにすることです。当時のカメラはまだコロジオン湿版を使っており、これはガラス板に感光材の硝酸銀溶液とコロジオン定着液を塗って、それが乾かないうちに撮影をしなければならないというものでした。70年代には露光時間は100分の1秒程度まで進歩していたのですが、とはいえこのような技術的制約のもとでは、馬がギャロップで駆けているところを狙いすまして撮影するのは大変難しかったのです。ではマイブリッジはどうやったのでしょうか?1878年6月19日、スタンフォードが所有するパロ・アルトの馬場(のちにスタンフォード大学ができるところです。)で、マイブリッジは馬が走る直線の走路に沿って12台のカメラを設置しました。それぞれのカメラから走路には糸が張られており、馬がこの糸を引っ掛けるとカメラのシャッターがきられるようにしたのです。これで、馬がこの走路を走ると自動的に12枚の連続的な像が得られるようにしたのです。あとはこの12枚の像を連続的になんらかの方法で投影なり表示するなりすれば動画を見せることができるわけで、映画の発明まではあと一歩ということになります。(ちなみにマイブリッジの銅像が最近USCのキャンパス内にたてられました。なんでそんなものが必要だったのかはよくわかりません。)

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マイブリッジの疾走する馬の連続写真

(Eadweard Muybridge creator QS:P170,Q190568, The Horse in Motion, marked as public domain, more details on Wikimedia Commons)

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上記写真を組み合わせて作った動画

(Photos made by Eadweard Muybridge
Animation by User Waugsberg, Muybridge race horse animated 184px, marked as public domain, more details on Wikimedia Commons)

この連続的な表示のための最後の技術的な問題が柔軟なフィルムの生産です。1826年にはじめてニエブスが写真を発明したときの感光材料はアスファルトでした。ここから銀板、ネガポジ法、湿板、乾板といった様々な技術的発展を経て、感光時間の短縮、携帯性の向上、機械的複製の実現などが達成されました。(この辺の事情は直接映画と関係ないので省略します。)しかし、連続的にイメージを見せるというときの最大の問題点が、これらの方法で得られた像が固い物質の上に定着されたものであるということでした。実はマイブリッジは上述の馬のギャロップの連続写真をもとにゾエトロープを作りズープラクシスコープと名付けました。マイブリッジはズープラクシスコープを使って、連続写真を元にシルエットとして描かれた動物の運動を再現することに成功し、エディソンのキネトスコープの発明にも影響を与えました。しかし、複数のカメラを使うマイブリッジの方法では連続的なイメージを定着させるための手間があまりにもかかりすぎ汎用性も低かったのです。単一のカメラを使って簡単に連続的なイメージを得るために、柔らかな感光素材が必要でした。これを解決したのが、アメリカ人のイーストマン・コダックが開発したロール・フィルムでした。1889年、イーストマン・コダックがセルロイドを利用して巻物状にしたフィルムを開発し、これによって、あとはこのロール・フィルムを一定の間隔でカメラに送り出す装置さえ開発すれば連続的なイメージを写真に撮ることができるという状況になりました。

映画の誕生という神話

ここまで解説してきた通り、映画の発明が1895年であると言っても、それは人類が初めて動く映像を見たのが1895年ということではありません。しかし、1895年という年は神話的な映画の起源として強調されてきました。例えば、リュミエール兄弟が1895年に映画を上映したときに、映画の観客は初めて見る動く映像におどろいてしまい、画面の奥から手前に向かってくる蒸気機関車に恐れをなして思わず座席から逃げてしまったというエピソードがあります。映画に詳しい方ならば一度は聞いたことがあるでしょう。このエピソードは、それ自体が正しいかどうかということとは別の次元で、後世の人間が1895年という年とリュミエールの発明を神話化する言説だとも言われています。1895年の段階でパリという大都会の住人は、ここまで紹介してきた動画を提示する装置にはある程度親しんでいたことが推測されます。だとすると、実際のところリュミエール兄弟の観客は単に驚いたふりをしただけで、本当は彼らはシネマトグラフのお披露目のイベントで興行主やマスコミが望むような反応をしたか、あるいは驚いてみせるというやり方でこのイベントを楽しんでいたのかもしれない。確かに、マイブリッジのズープラクシスコープがシルエットだけしか捉えられないことに比べればリュミエール兄弟のシネマトグラフの描写の写実性の高さは観客を驚かせたことは間違いないでしょう。しかし同時代のメディアが1895年を記念碑的な分水嶺と捉えるために観客の反応を過剰に脚色したとも考えられているのです。

ここまで見てきたのは技術的な観点ですが、興行的な点からも映画は、19世紀の文化と連続的なのです。たとえば、マジック・ランタン(幻灯機)という技術を使った興行が19世紀には盛んに行われていました。マジック・ランタンとは一言で言ってしまうと、小学校の授業で使われていたOHP(オーバー・ヘッド・プロジェクタ)のようなもので、スライドの内容をスクリーンに投影する映写機のようなものでした。18世紀のフランスで発明されたもので、写真の発明に先立つことになります。もちろん映画のように動画を見せることはできなかったのですが、マジック・ランタンそれ自体や光源を動かすことで擬似的にイメージを動かすことができました。このマジック・ランタンを利用して、ファンタスマゴリアという一種のホラー・ショウが行われました。下図はその様子を描いたものです。中央のスクリーンに大鎌を持った骸骨が見えますが、よく見ると左側にマジック・ランタンが置かれていることがわかります。このマジック・ランタンを動かせばスクリーンに映し出された骸骨も動いて見え、それに観客たちが驚いているという訳です。

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フアンタスマゴリアの様子

(Alphonse de Neuville or A. Jahandier, 1867 interpretation of Robertson's Fantasmagorie, marked as public domain, more details on Wikimedia Commons)

以上のような、技術的、科学的、興行的な映画の前史を見ることでわかるのは、映画はたしかに20世紀を特徴付けるとても大きな発明ですが、ある瞬間偶然に生まれた訳ではなく、19世紀の映像技術や生理学や化学、大衆文化のさまざまな歴史の交錯する場所に出現したということです。映画の歴史の授業をするときに、アメリカの大学ではまず間違いなくこの映画の前史について語るところから始まり、「映画の授業」を期待している学生はかなり面食らうようです。ですが、映画という技術的発明ができたばかりのころの映画を理解するためには、一度私たちが知っている映画についての固定観念を一旦棚上げし、19世紀から20世紀の変わり目に生きていた人々がどう映像と関わっていたのかを理解するところから始める必要があります。その結果、映画史の授業はこうやって「普通の映画」を見ることを期待してきた学生の意表をつくところからスタートするのです。

第2回と第3回ではリュミエールとエジソンの映画についてより詳しく見て行きます。

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