永遠に飛んでいたい、着地点は見つからない

今日、蝉が鳴いているのをこの耳で聞いたから私の夏が始まった。夏が始まったから書きたいと思った。何かを、この脳内に連なることから生成した何かを、書きたいと思った。私が今十九歳であることをどこかに書き留めておかなければ、たった今も死に続けているも同然だと思った。爪痕は残した方がいい、この世界はいつだって変容していく、だからできる限りの暴れ方で生きていくことが世界に対する正しき反抗に思えてくる。近くの道端に落ちている最低な出来事が拾われないのは、この世がもっと最低だからだと思わなければ現実に則った見ぬふりができなくて、飛ぶことすらままならないんだから本当にくそ、くそくそ。
この調子でいけば私はきっともっとこれからこの世界についていけなくなって、置いていかれるまいと量産的な人間の真似事をしていく気がしている。わかる、見える、だって今もちょっとそんな風に生きている節がある。自分を演じない方法で、新しい自分に生まれ変われたらそれはもう、とうとう殻破っちゃった!って感じなんだろう。変態、本物の変態、完全変態ってやつ。幼い頃の自分から逃げ切ったみたいでそれはそれは美しいよね。でもどんなことがあったって私は昆虫ではなく人間であって、願ったり祈ったり傷ついたり。きみはきみらしくいてねなんていう優しさから来たはずの言葉を「そんなのお前のエゴじゃないか」と受け取ってしまう拗らせ精神のせいで、私は私であることが認められない。この顔とこの肉体を以て放つ言葉が、感じる心が、どこかを削っている。自分しか読まない日記に話を盛って未来の自分が悲しまないようにしたりする。百パーセント本当のことを書けたことがない時点で、きみはもうだめだよと叱咤してくれる人も大人になった今、いない。わかっていたことだ。

昔好きな人に、誕生日には大きな救済が欲しいです!と云ったら、付き合うことになったことがある。ぼくと一緒にいれば救われるよ、みたいなことだったんだろうか。彼はこの世界に隠されている芸術という名の叫びを数えられないほど教えてくれた。音楽も絵画も本もその人の魂が鮮明にありありと感じられるんだよと、いつも言っていた。魂を感じてどうするの?と思っていたけど聞かないようにしたのは、幼いと思われるのが死ぬほど嫌だったから。彼はいつもベッドで泣き喚く私に向かって「世界が見え過ぎているんだね」と言った。達観の域を超えて、明るくも暗くもない人のそばで泣き疲れて眠るのが好きだった、というより、多分私は彼の内側に映る自分ならば愛することができたのだと思う。でもとても博識な彼だって永遠のことはちっとも知らなくて、どちらからともなく放たれたさようならは確かにきみのためだったし、それと同じくらい私のためだった。時たま彼がくれた言葉を思い切り反芻する。人がいなくなっても言葉だけは残ることがうれしい。言葉だけが、言葉こそが、私に都合のいい形でしっかりと永遠を象る。今ならば、自分に囚われないようにするために芸術という他人の魂の叫びを借りるのだと思っているけれどどうかな、答え合わせ、したかった。

最近はバイトをやめたのに忙しく、お金も時間もないから芸術に全身で触れることが難しくなって、さらには眠ったり起きたりするのが昔よりも下手になったり、勉強することで未来を見据える方法が馬鹿らしく思えてきて、昔よりも未熟さが増してしまった。今は目に見えない救済を求めているのではなく、ただ起こる全ての事象を諦めていて、たすけてくれの五文字を自分自身に訴えるために長ったらしい文章をこさえて、苦しみを紛らす、これが日課。ゆっくりと周りを考えることを放棄すればするほどに、時間と共に映る目の前の景色の褪せ方。日に日にずれていく言葉と声の距離。もう2ヶ月くらいはまともに小説を読めていない!そのせいで頭に浮かぶものがありきたりでつまらない。夢はいつも突拍子もないくせに、現実はのっぺりと進むから、ただ「生きるをこなす」という感覚。それだけが残る。

今年になってから、私を救おうとしてくれた彼を含む恋人たちにもらったもので、手違いで残っていたものをかき集めて処分した。私の思い出は私のものではなくなった。ついでに見たいものも無くなって、コンタクトをしなくなった。テレビを、YouTubeを、つけなくなった。音楽で思考に蓋をして、それを漏らさずいられるようになったし、本音などどうでも良くなった。大人になるというのは踏ん切りの付け方が上手くなることか、それとも意味がわからないことに、意味を見出そうとしなくなることか。
でも今の私は何もかもに意味がほしい。普通とされることに疑問を抱きつつ、自分であろうとすればするほどに他者によって成り立った自分の存在を自覚している。アルコールを少し齧ってみたって夢見心地は一瞬で、これっぽっちの希望も拡張してはくれない。後から押し寄せてくる現実は重く暗くのしかかる、世界の重さってこんな感じなんだ、って比喩ではなく。
過激な恋心にゆれる必要を感じなくなって、悲しみの底が見えて、暗闇にも目が慣れた。(精神薬のせいかもしれないが)それは本当に惨めなこと、でも同情なんてくそくらえ!私が私を見失いそうでも明日は晴れで、時々雨で、豚は降らずに綺麗事が蔓延する。ティーンエイジャーはスマホ中毒で、顔のジャッジにしか興味がない奴らが馬鹿騒ぎを繰り返す。もう承認欲求とかはいい加減干からびてくれって思わないかい?ってそんなことは言わないけどね。

自分の未熟さが故に、天秤の上で足早に感傷と無気力を行ったり来たり。形にならない瞬間の訪れを待ち侘びて少女の絵画が嘲笑う。辛いなあと言ったら辛いねえと返ってくる、途中で行かなくなった学校の校舎の中から見える絶望の色はうんと青かったのだと、終わったからわかること。終われば誰しもが傍観者。余所者としての目線を持つんだと知る。


蝉は鳴き続ける、
夏は過去が光って見えるから嫌いだ。友達が死んだり、親戚が死んだり、かと思えば知らない公園に新しい遊具ができたり、私たちは人生にこんなにも真剣だから、涙より鼻水が多く出る泣き方をしちゃうし、いらないところで多弁になって余計な台詞を口にしちゃうし、自分の醜さに嫌気がさして鏡を割ってしまうし、空を斬って部屋から解放されたくなったりする。でも過去がどれだけ光ったって嬉しくはない、今は今だ、それらとは切り離された存在であることこそが最強のカルチャー。わかってる、全部わかってる。美しいのは若さじゃないと言い聞かせるように唱えながら、かといって唱える以上のことはせず、パソコンの前で冷房の風にあたっている。笑われて生きるのは楽じゃなかった。記憶の中の私、蝉よりも光って死ね。この瞬間のみに許された生を全うしなくてどうする。

二十歳になれば何か変わるかと言えば、そんなこともないと思う。なんだこんなもんか、と別に一つも覆らないままに日々は過ぎていくんだろう。私はそれに耐えられるかわからない。無色透明な才能を見限って、お前に何ができる?っていつも問うている。死にたいという音をこぼしたとき、一緒に死のうと言ってくれたお前!を愛してたよ、だけどそれ丸ごと誰かのせいにしたかった。誰かに何かを許してほしいから書く、贖罪のような文章はきっとどれだけ上手い文章ができても、気づいてほしい人にだけ気づかれないと知っているのに、だ。ここではいつかモラトリアムを制覇して、未知の行き止まりにたどり着く意外に方法はないのかもしれないね。

私は、人生の半分くらいずっとずっと言いたいことなんて一つとなくて、ただもつもの全てを偽っていた。道理で俺は空っぽさとでもいう体裁をとって、言いたいことはもちろん、食べたいものなんて、行きたいとこなんて、会いたい人なんて、やりたいことなんて、本当に全然なくて、別になんだってよくて、だから今までに出来上がった詩も小さな寝言でしかなくて、誰かに届いて欲しいとか思う権利もないし、流されて当然のものしか書けていないと思う。自分の空っぽさや浅はかさを見逃さないための表現が運良く詩に行き着いただけだから、私が私を確固たるものとして表現出来る方法はやっぱり死だとしか思えないし、(全ての行為には限界があって、それを超越した行動が他にない)でも、死んだらすべて終わりで、それではあまりにも呆気がなく、あとがきも書けないということで生きながらえている次第なのです、、、と、一九歳と九ヶ月の私が言えるのはこのくらいしかなかった
(それ以上があってはたまりません)

結局は着地した先が永遠さ、正真正銘のぼくときみとあなたとおまえと彼と彼女になるべく、そこら辺で愛を叫ぼう、頼むからみんな等しく狂ってください。

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