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2020五輪論

開幕

二年のうちに世相は変わった。醜の御盾といでたつ我は。五輪のへにこそ死なめかへりみはせじ。金達は花と散ったが、同じ金達が生き残って上層の飯となる。けなげな心情で五輪を見た国民も半年の月日のうちに犠牲の位牌にぬかずくことも忘れるばかりであろうし、すぐに新たな火種を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変わったのではない。人間は元来そういうものであり、変わったのは世相の上皮だけのことだ。


令和3年7月23日 東京五輪が57年ぶりに開催された為にいつもはコンセントを抜かれたままのテレビが久しぶりに光を発した。2年前にはまさかこんな気持ちでテレビの前に鎮座することになるとは思いもしなかったが、実際、現実にそれが起こっている。

率直に言えば、開会式は最高とは言えなかった。私が昔から、家族と外食に言って不味い飯を食べた時に親が言う『あんまり美味しくなかったね』という言葉を恐れていたのは、私にとってその言葉が楽しかった記憶を破壊するバルスであったからだし、料理の味と食事の思い出それ自体は全く別だった(※私は自分が多少ひねくれ者な自覚がある)。 そのため私は元来他人が喜んでいる所に批評を下すタイプではないし、楽しんでいる人間に水をさすことを嫌う人間であると前置きした上で敢えて言おう、『退屈な開会式であった』

だがしかし、今回は良かった点から先にあげていくことにしたい。本当は下げて上げる方が好印象を得やすいので、悪かった点→良かった点の順で書きたいのだが、炎上準備の薪に放火する一端を担う方々の半分は最後まで内容を理解せず文脈もあやふやに火をつけるので、ゆっくりと文章を構成する余裕などない。『炎上だけには注意しろ』と学習指導要領に載せるべきだと考えている。そうするべきだ。


良かった点

ピクトグラムの実演は素晴らしかった。小林賢太郎氏の解任で涙ほろろだった私には、思いがけない置き土産だ。言葉を一切用いずに笑わせる実演は、ピクトグラム本来の目的とのすり合わせがされているし、世界中の誰が見たって今自分が何を見て面白いと思えているか誰とでも共有することが出来ただろう。世間の評判もかなり良かったように思う。正直、これだけで残りの悩ましい部分を覆い隠して、『素晴らしかった』と言うことも出来なくはない。いや、私は無理だが。

ドローンパフォーマンスも見事だった。ドローン調教のコツを是非とも教えて頂きたい。彼らはお利口なドローンだけを集めたのかもしれない。どうやらドローンはエンブレムだけでなく、『IMAGINE』の歌詞やピクトグラムも夜空に描かれたのだが、それはテレビでは映されなったようである。残念無念。

最後は入場曲。ドラゴンクエストの『ロトのテーマ』がかかった瞬間はさすがに心が高ぶってしまった。ゲーム音楽は我々が思う程有名ではない。そもそもゲームや漫画、アニメといった日本では当たり前の文化は、海外へ1歩踏み出すと『オタクの奴らに人気のモノ』程度の認知であることが多く、日本とは熱量も気迫もヲタクの気持ち悪さも全く程度が違うことが分かるはずだ(※海外にそういうヲタクがいないとは言わないが)。是非海外へ足を運んだ際には確認して頂きたい。我々が普段目にしている、電車のゲームイラスト広告、アニメCM、街に大きく貼られたアニメポスターなどほぼ出会うことはないだろう。それ故に、ニッチなオタク文化を五輪の舞台に立たせたこと自体、評価する人は多い。反対に『こんな時だけ利用して』と拗ねてしまうオタクもいた。私は前者である。少しでも世界の人に、日本の気持ち悪く愛おしい部分を見て貰えたなら、羞恥と誇りの温泉に身を深く沈めることが出来る。


悪かった点(※立ち入り注意)

2012年のロンドンオリンピックを覚えている人も少なくはないだろう。なにせたった9年前なのだから、note前半の駄文を乗り越えここまで読み進めてきた方なら年齢はそれなりとお見受けしている。私も勿論覚えている。特にあの開会式と閉会式の記憶。あのテレビから伝わる壮大な映像。今でもしかと胸に残っている。芸術を比較するなと石を投げないでいただきたい。2021年は、2012年とは真反対であった。数字の並びの話ではない。


一言で言えば、今回の開会式は『前菜しか運ばれなかったフランス料理』だ。開会式に65点以下を付けた人には、なんとなく感覚が共有されるのではないだろうかと期待する。オブラートに包むが、ひとつひとつを見ればそれ程悪いとは言えないだろう。むしろ前述の通り素晴らしい部分もいくつかあった。では何がその足を引っ張ったか。戦犯は2つだ。

ひとつは、スケールの小ささである。何故あそこまで広い場所で、中央だけで縮こまったのだろうか。いや、いい。言い訳は聞きたくない。予算・日程・出演者・裏のあれこれ・エトセトラエトセトラ。この東京五輪が新型コロナウイルスに邪魔をされたことは誰の目から見ても確かである。だが、それがここまで開会式のレベルを下げる理由にはならないこともまた、誰の目から見ても確かである。しかも縮こまり方が絶妙にバランスが悪いのだ。例えば、ギュッと中央に凝縮して、2:8もしくは3:7の使用場所と空白の比率であれば良く見えるかもしれない。しかし、今回は、5:5、4:6程度の比率であったので、バランスをとっていると言うよりは、散らばっている印象が強かった。蜜を避けたのだろうか。その意図があるのならば皮肉として分からなくはない。

もうひとつは、よく分からないである。そう、結局自分が何を見たのか分からない。統一性がない。だから満足しきれない。『多様性』を求めたか、『和』を見せたかったのか。2頭追うもの1頭も得ず。さらに言えばあまりに抽象的すぎるだ。芸術は往々にして凡人には理解されないのだろう。イメージを具現化してもそれには限界がある。凡人が理解できない範囲の芸術を用いてオリンピックを作ってはいけない。声を出しつつ細かく素晴らしさを説明することは出来ないのだから。パブロ・ピカソはお呼びではない。ミケランジェロ・ブオナローティでなくては。もっと分かりやすく簡単に人々を喜ばせる方法はあったはずだ。これはなにも演出だけの問題ではない。MIKIKO案は当初計画されていたオリンピック開会式案のひとつである。これは悔やまれる。何故なら、素晴らしいからだ。誰が見たって、″これが日本だ″と思う。それはどういうことか。つまりは、あれこそが日本にしか出来ないことである。アメリカにも、イギリスにも、ブラジルもフランスもドイツ、インドネシア、中国、ウクライナ、エストニア、ケニア、サモア。どこにだって真似は出来ない。日本しか出来ないことだった。そして私は、いや、我々はそれが見たかった。芸術は爆発だ。今回のオリンピックは爆発ではない。ジッポーの火だ。誰の煙草の為だったのだろうか。


閉幕

『それ、あなたの感想ですよね』

いかにも。私が上記で述べたことは私の感想以外のなにものでもない。この国の人間は優しいと思う。いや、厳密には頑張った人間には優しいと思う。そしてこの国の人は自分が思っているより頑張っている。それ故に他人が努力して作り上げたものにケチを付けるのは罪悪感がある。かくいう私も、しっかり日本文化に浸って生きてきた。だからこそ、ここまで書くのは気が引けた。気が引けた奴の文章じゃないが?と思ってくれたのならそれは光栄なことだ。私は自分の思ったことを盛り上がりと楽しさで流したくなかった。オリンピックはずっと楽しみにしていたのだ。傷を和らげる為に見て見ぬふりもしたくなかった。『64年の再来だと、いやそれ以上だ』と言う準備は出来ていた。


最後に。

最後に言っておかなければならないことがある。金ばかりの一部上層、アイディアの安易な使い捨てなど様々な部分に腹立たしくもあるが、今回の文章は″開会式そのもの″に向けての批評であり、関係者各位の人格や思想等に向けた言葉ではない。ここまで混沌を極めつつやり遂げた努力に関しては敬意を表したい。


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