自己紹介について
岩手県平泉町在住の着物のお仕立ての専門家の千葉郁子です。
着物の仕立てを30年携わってきました。
私が子供の頃、母が家で着物の仕立てをしていました。
反物から着物になる過程をみてワクワクしていました。
色々な柄、綺麗だなあ。触ってみたいなぁ。
着てみたいなぁ。
待ち針が可愛いなぁ。
お裁縫してみたいなぁ。
どうやって着物になるんだろう。
縫ってみたいなぁ。
そんな経緯と父が時計屋をしていて、国家資格の時計修理技能士2級をもっていました。
母は体が弱いながらも無資格で内職として呉服屋さんから仕立て物を預かり家で仕事をしていました。
両親が揃って家で仕事をしていた職人一家でした。
父が1級の国家試験にチャレンジしたのは私が小学3年生位の頃だったと思います。
時間を3秒オーバーで失格だったと聞きました。
父の作業を見ていた試験管の方から
「時間はオーバーしたが内容は完璧でしたよ。」と言われたそうです。
父は試験管の言葉に満足したのかなぁと子供ながらとても印象深く記憶に残っていました。
小学6年生の頃に近所の和裁教室へ母が学びに通っていました。
そこに私も一緒に通って子供物の着物や被布を縫ったり、中学生の時はウールの着物と長襦袢を縫いました。
その頃の事はよく覚えています。
高校の授業で浴衣を縫う学校へ行きました。
卒業後
進路をどうするか決める段階で就職かな。
と考えて想像が出来なかった。
父のように時計の修理技能士に
国家資格の1級にチャレンジを私がしよう!
母は和裁の資格が無いけど夜なべ仕事をして家計を支えてくれました。
調べたら和裁でも国家資格がある事を知りました。
私が小学6年の頃にホームセンターが町に出店するようになり時計か安く販売されているのを母が見つけました。
その時の母が話していたのは「時計屋はもうやっていけないよ。」衝撃的な内容だと感じました。
それから間もなく父方の祖父が病気で亡くなりました。
自営業の辛さはその頃に身に染みています。
いつまでも祖父母から援助をあてにしてはいけない。
母は時計屋に未来は無いと考えて引越しを計画しました。
父は店を閉じる決断をしたようでした。
引越し先は母の従姉妹が経営する学生向けのアパートでした。
場所が変わっても和裁で家計を支えてくれる母。
父は足が不自由な為仕事を見つけることが困難な時代でした。バイクに乗る事が出来たので乾物の販売、ミシンの営業。
父は職人として技術を磨いて来ましたが営業は得意ではなかったと思います。
母が毎月、固定のお給料の仕事を探して欲しいと話して、身体障害者を会社で一定数、雇用する法律ができたかで金型プレス工場に採用が決まりました。
父にとって立ち仕事は辛かったようでした。
それでも家族の為に努力する姿を見続けていました。家に帰ると父はいつも倒れ込むようにしての毎日。
父が働く会社でお祭りに参加する為に会社のお神輿を作成することになったと聞きました。
その作成担当に父がなり、お祭りでその御神輿を見るたびにその事を思い出していました。
主人と結婚してから主人がお祭りで父が作成に携わった御神輿を担いだ事も何度かありました。とても感慨深いです。
娘としては誇らしい気持ちでした。
高校を卒業後の進路は
家の経済状況から進学は難しく。
自分としては和裁の専門学校に行きたい。
国家資格を取得できる学校で学びたい。
人間国宝の技術を学びたい。
全寮制で4年で国家資格2級の受験資格が得られる専修学校。
言葉にして親に伝えました。
母が父に、「可愛い子には旅させよ」と言う言葉があるからと話してくれたそうです。
父が身体障害者という事で市の福祉課で手続きをすることで学費を借りることが可能になりました。
晴れて自分の人生に向かっての一歩を踏み出す事が出来たのです。
自分の人生を後悔しない為の選択をその頃はしたと思います。
専修学校に4年間学び国家資格2級を在学中に取得しました。
専修学校の講師になる昇格講習に2年かかりました。
日本和裁士会、和裁教員
職業訓練指導員
国家資格1級和裁技能士
資格を取得するには今だけだという思いで努力しました。
1級和裁技能士を目指したのは父が3秒オーバーで1級の試験に不合格になった事のチャレンジを私が目標にした事。
和裁は日本人の民族衣装だから無くなることはないだろうと考えました。
人生の節目には着物を仕立てて着せてくれた母
母が私にカエルの子はカエルと話していました。
子供の頃から身近な着物の仕立ては
母方の祖母が
反物と見本の着物を渡されて着物を縫うようにお姑さんに言われたそうです。
着物を解きながらどんな風に縫われていたのか学んだそうです。
亡くなる間際まで近所から仕立て物を頼まれていたようです。そうして着物の仕立てをしていた祖母を尊敬します。
私が和裁をしたいと目指したのはそんな時代を生き抜いてきた祖母や母の苦労を無駄にはしたくない。と思いました。
人間国宝の技術を学び世界中に広めて行きたいと考えたのは、
専修学校の初代学園長の大原マサ先生が勲6等宝冠章の叙勲を受けられ
私が4年生で学生代表として大原マサ先生に花束の贈呈をさせていただきました。
2代目の学園長は和裁はどこにいてもできる職業。沢山の方に伝えて下さい。と話されたことを忘れられないです。
着物は人生の節目や家族の思い出
記念日の演出家
SDGSな衣装である着物を活かしてもらえるような提案をしていきたいと思います。
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