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めめの目から〜アダプト評⑥〜


明けて10曲目に『DocumentaRy』のDJスタイルから第二幕が始まる。新たにJINS MEMEの音が加わり今のドキュメンタリーを紡いでいく。それは現在のリアルとメンタルをぶつけて生まれた火花を、これからまた次の音楽へと変換していくことを示唆していたのかもしれない。また、先程までの感動や余韻を損なわずに浅瀬へ連れ行く導線としても上手く機能していると感じる。こんな風に綴っているが、浴びた当時はそんな余裕があるはずもなく、踊り狂っていたのは言うまでもない。そして忘れてはならないのがRhizomatiksのVRの凄まじさだ。初発ONLINE時からもうすでにキマっていたが、後、武道館の際にはさらなるブラッシュアップがかかっていて思わず笑ってしまう程だった。さすがとしか言いようがない。そして仄かに次の曲、アイツの足音が近づいてきて──


11曲目に『ルーキー』が緑のレーザーと共に立ち現れる。これはSAKANAQUARIUM 2011 DocumentaLyツアーと同じ流れだ。確実に意識している、インスパイアされた物だろう。ここで2011年の繋ぎが出てくる意味、それはやはりかの震災とこの禍を重ね合わせたためだろうか。そして、改めてその歌詞の良さに気がつく。特に部屋の中を表すAメロの詞。
"あとどれくらいで朝がくるのか"
"悲しみと同じ歩幅で歩いた夢を見てた"
"何気ない部屋の壁の傷を数えたりして"
"眠れない夜をすり減らして爪を噛んでた"
改めて今と重なる部分も多く、その普遍性をひしひしと感じて恐れ入るばかりだ。                                    最後の"行かないで""思い出して"も前回記した今の音楽の立場やその再生の残響を勝手に感じてしまったりする。音楽からの乖離とその復興。また、今回はレーザーとたくさんじゃれあうことができたので筆者は大満足である。

続いて、見えない夜の月の代わりに引っ張ってきたのは12曲目『プラトー』である。その言葉の意味は「停滞期」
同曲は"今日と明日を曖昧に"するような"平行線"の夜を乗りこなしてきたことによって生まれた1曲、その最たるものだろう。サビの"この夜は 目を閉じて見た幻 いつか君と話せたら"の部分においては、やはりどうしても深夜対談の日々が思い出されてしまう。"冴えたり曇ったり 行ったり来たり" "垂れたり濁ったり 行ったり来たり"この部分は後に近しい言葉が『フレンドリー』でも用いられるが、数多の意見や想い、そこに付随する責任と現実、そしてそれらに翻弄される心模様が脳裏に浮かぶ。

先の「834.194光ONLINE」に引き続き、今回も協賛と提供に加わったサンテFX(参天製薬)の2021年6月1日に行われた新TVCM発表会において初披露された同曲は、今回のセットリストに入った新曲5曲の中では最も素直にありのままの心境が綴られており、演奏面に関しては同製品とマッチするかのような爽快感と疾走感に溢れるバンドサウンドに仕上がっている。山口一郎が出演する同CMでも効果的に使用され、耳馴染みの良いキャッチーな浅瀬曲だ。間違いなくこの曲はフェス映えする1曲となるだろう。夜の拓けた野外で浴びてみたい、夏の草原の上だったら尚良し。筆者はそんな風に思って止まないし、それを想像すると表情がちょっと綻んでしまう。あ。事前に冷えた麦酒を飲み下しておくことも忘れないようにしたい。

さて、前置きが長くなってしまったが、話を今回のライブに戻そう。まず、ライティングとカメラワークが良かった。サーチライトでピンポイトに照らしていくようなモノクロの世界観、そしてその視点を激しい動きの中で各メンバーへと振っていくライブ感。それら双方が互いに組み合わさることでエッジが立ち、良い相乗効果を生んでいたように感じられた。
演奏面においては各パートの重なり合い方が大変に良い。2Aメロ前から入ってくるベース草刈愛美のスラップに心を掴まれるし、Cメロ間奏部のアンサンブルには楽器隊それぞれの技術力の高さに唸るほかない。またラストの大サビはどんどん強く増しうねっていく音数に対し、合唱形態の歌唱が乗せられることでいよいよエモーショナルは最高潮に達する。
そして、衣装面でも特筆したいことがある。衣装と書きつつ筆者も好きなスニーカーの話になるのだが、ONLINEでは同曲のカメラワークにおいてやっとその足元をきちんと確認できたような覚えがある。
ギター岩寺基晴はCOMME des GARCONS HOMME PLUS の Nike Air Foamposite One
ベース草刈愛美はCOMME des GARCONS のNike Premier
この両足元には本当に心の底から沸き上がった。特に後者の美しさたるや。スパイクとヒールの融合。実物も相当に良かった。仮に筆者が女性であれば購入に踏み切っていたはずであるし、男性であっても履いてみたい……サイズさえ合えば履いても良いのでは……だめ?と今も考えてしまうほどである。それくらい凛々しく、また格好よかった。このチョイスにさすが三田さんと賛辞の拍手を送りたい。

最後にもう少しだけ詞について綴ってこの項は終わりにしたい。これは10年前の『years』にも言えることなのだが、時代に添うときの"多分"が筆者は好きだったりする。この言い切らない曖昧模糊とした俯き加減な決意が好きだ。そこからは、今はまだ思考も世界も途中なのだ、とその変化を許容するような趣きを余白として感じるからだ。そしてこれは予想というよりも一種の願望に近いのだが、同曲で"今"と"これから"を唄い、来たるアプライではその続きとなるような楽曲が作られるのではないか、とそんな風に思ったりもしている。それが応用にあたるのではないか、と。"僕が今感じてるこの雰囲気をいつか言葉に変えるから"その"いつか"がアプライで訪れるのではないか、そんな風に考える。

皆が足を止めざるを得ない状況で唐突に訪れた停滞期。そこから次に何をどう拡げていくのか。それはささやかな祈りにも似ているのかもしれない。

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