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めめの目から〜アダプト評⑧〜


歩き始め、周りを見回すことで他者と自己を見つめ直し、"どこへ行こう"かとその目的地を思案する──。そんな『夜の踊り子』がこの17曲目にやって来る。

正直、筆者は同曲に対しやや食傷気味であった。もちろん、当初からそうであったわけではない。当時、某奇妙な冒険を思わせるような装いのジョンテモーニングが踊るモード学園のTVCMが先行して放送されていたと記憶するが、その突き抜けるようなサビは非常にキャッチーでかっこよかったし、いざSCHOOL OF LOCK!で初フルOAされた時には脳が痺れた。田中裕介が手掛けたアバンギャルドでジャポニスムなMVの世界観もとても好いている。例の音楽番組にも同曲で出演していたはずだ。間違いなく彼らにとってのキラーチューンのひとつである。ゆえに、ツアーでもフェスでも、どのセットリストにもまず入ってくる。それは何も彼らが悪いわけではない。その日初めて目に耳にするリスナーだって多いはずなのだから、そういった曲がライブに添えられるのはごくごく当たり前のことだ。だがしかし、どれほど美味しい物でもしばらく続けば食指が動きにくくなるというもの。筆者にとってはこの曲がまさにそれにあたる(本当はもう1曲あるのだが今ツアーとは無関係であるためここでは伏せよう)。こう綴りながら、いざセットリストから外されその繋ぎや展開がなくなるとまた聴きたくなってしまうのが厄介なところである。嗚呼、この我儘たるや。ないものねだりのそれに違いない。『アイデンティティ』→『ルーキー』がまさにその最たる例であろう。現在、その間に『多分、風』が挟まる形の進化系となって残ってはいるが、臍を曲げた彼の人にはそろそろ機嫌を直して頂いて、この繋ぎをぜひ復活させて頂けると幸いである。

さて、気がつくとまた脱線してしまっている。話を今回のアダプトに戻そう。同曲に対する本音を綴った上でお恥ずかしい限りなのだが、筆者にとっては今回の意外な泣きポイントとなってしまった。何を隠そう、その詞が深々と刺さってしまったからである。

具体的に記せばこのふたつの部分。

"行けるよ 行けるよ 遠くへ行こうとしてる
イメージしよう イメージしよう 自分が思うほうへ"

"笑っていたいだろう"

「ああ、そうか」と思った。この「そうか」はバンドにとっては次の曲に繋がっていく。そして、どうしても自分の今とも重ね合わせてしまう。どこにも行けない閉塞感と、それでもどこかへ行かないといけない焦燥感。終盤に差し掛かり、このライブの序盤に感じた澱がだんだんと澄まされていくのがわかって、泣けた。そしてその泣きの感情はまだ続くこととなる。目指す先はやはり──


『新宝島』

がお馴染みのカウントから18曲目に始まった。

原点回帰であり新規開拓、今や押しも押されもせぬ代表曲。その曲調はポップでオリエンタルでオルタナティブ、そしてやっぱりダンサブルだ。その制作の過程には壮絶なドラマが紆余曲折に存在していて、なんだかそれを今こうして綴るために思い出すだけで胸が締め付けられるような気分になってしまう。
当時、本当に「ありがとう」と「おかえり」があった。『グッドバイ』でドロップアウトする物語があり『ユリイカ』で血を濃くする篩(つまり篩は以前から度々存在する)を置き『さよならはエモーション』でシーンへの決別と覚悟が唄われた。
メンバーの妊娠出産、それに伴うライブ活動休止、他メンバー2名のスランプ、書けない歌詞、ずっとピリピリしていた。怖いくらい静かにヒリついていた。そこにNFというオーガナイズパーティと自主レーベルの発足で新しいことへの試みがなされながら、旧譜のアナログ盤やカップリング&リミックス集でこれまでの懐かしさにも目を向けた。そこでようやっと出来上がった『新宝島』という次のエポックメイキング。今なお愛される同曲はまさに「モノづくりの苦しみ」の果てに生み出された名曲である。何が憎いって、それを感じさせないアッパーな音像とコミカルでシュールなビジュアル(MV等)がまた憎い。ただ、だからこそこれほどの強度を保ち、今なお様々な場面で使用され、多くの人々に愛されているのだろうなとも感じる。
同曲は、新しい大義を積んだ次の船出、サカナクションというバンド、その第二章の始まりを告げる福音である。そんな楽曲が今回ここに充てがわれた意味。それを考えた時に先の「ああ、そうか」に続く言葉が浮かんでくる。「ここからまた目指すんだな。新宝島を」と。これは始まりである、そう感じて涙がこぼれた。


(ここで語るを終え次曲に繋ぐ方が綺麗ではあるものの、当方残念ながらただのオタクであるから、気になった演出を蛇足だが綴りたい。

まず、新宝島ガールズが密で笑ってしまった。あんな狭い空間にあの人数である。めっちゃ詰め込むやんと思わずツッコんでしまった。かと思ったら降りてくるやん、で結局洗われるんかーい、までがワンセットである。TOURではお目にかかれない物とばかり思っていたから、武道館で出演してくれたのは意外性があって良かった。それとこのガールズについてひとつ疑問がある。今回は振付稼業air.manが率いる(であろう)air.man dancerとなっていた。多摩っ子バブルスは一体どこへ……。

それから意外性といえば、まさかのバッハ人形のダンサー加入も笑えて良かったと思う。とことん楽しい絵面が続いて終始和やかな雰囲気だったなあ、と書きながら思わず優しい表情になってしまう。メンバー同士の絡みやその表情も大変良く尊いものであった)


笑い泣きの2曲が終わり、ライブ本編最終曲がやってくる。19曲目の『忘れられないの』だ。

最近のセットリストでは必ず終盤に入ってくるため、筆者の中では締め曲の印象が強い。「ああ、もう終わっちゃう……」と同時に「この夜も忘れたくないなあ……」と毎回のように思っているような気がする。

しかし、その初出である「SAKANAQUARIUM 2018-2019 魚図鑑ゼミナール」では「中層」部の終わりに披露されていたため、終盤入り前という立ち位置だった。同ツアー中にどんどんと楽曲が変化していき、楽しかったことを覚えている。そんな同曲が終盤に添えられるようになったのは「SAKANAQUARIUM 2020 834.194光」からだが、この曲、今も進化を続けているような気がしてならない。あとはどんどんとMVに寄せられていっているような……。

今回も大量のスモークが焚かれ、どこかファンタジックな導入から始まる。山口一郎の軽快なステップも健在だ。またそのキラキラ感がすごい。上述した「図鑑ゼミ」ではもっとこう、穏やかで叙情的だったはずだ。所謂エモい、チルいみたいな。80年代AORを意識した音像に摩天楼バックのギターソロや降り注ぐ銀テープ、それらに未経験のバブリーさを感じてしまう。当時はまだ生を受けていなかったにも関わらず、どこか懐かしさを感じてしまうのだ。日本の原風景なんかもそうだが、懐古や郷愁みたいな感覚は結構、曖昧模糊とした憧憬であるように感じる。また今回『ショック!』に出演していた嶋田久作のパンチが挟まれる小ネタ的演出も可笑しみが効いていた。

こうして、軽重の異なる煙(霧)の中で本編が終了する。ライブの始めでは重苦しかったそれも、その終わりでは幻想的な物に変化しているのだから興味深い。これは今ライブのストーリー性のみならず、バンドの歩み、またそれらを見聞きしてきた我々の心模様のようでもあった。完全に晴れ切ったわけではないものの、この霧の向こうをまた目指していくのだと、そんな前向きな姿勢を感じる。夜を抜け、明日を知り、煙に巻かれて光に抜けきれずとも……。そういった気概が余韻として筆者の胸には残った。


最後に、これはさすがに考え過ぎだとは思うものの書いておきたいことがある。同曲の元々の名についてだ。今の名がつけられる前、その仮タイトルは『新しい部屋』であった。上京をテーマにした楽曲であるから、ブレのないタイトルであると感じる。しかし今の状況にそれを当てはめた時、少し違った見方ができはしないだろうか。件のウイルスは依然として猛威を振るい、油断のできない状況が続いている。それはライブの冒頭と同様だ。だが、我々には乗りこなしてきた2年間がある。その中で様々なことを見て、想い、考えてきた。苦しく辛いには変わりないが、どこか慣れが出てきているし、自他含む世界が動き始めてきた、そんな気配も感じる。禍の中において、「適応(=アダプト)」してきたのは間違いがない。

籠るにおいて物理的には同じであれど、心理的には変わり続けてきた。止まっているかのように感じられる時間も確かに進み続けている。この期間の物語を共に過ごしてきたこの部屋はある種『新しい部屋』と言えるのかもしれない。

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