見出し画像

めめの目から〜アダプト評⑩〜

いよいよ今ライブの総括に入りたいと思う。

前項までの『フレンドリー』についてが途中に思えるかもしれないが、この項を通してそのテーマ性にも触れながら進めていくつもりであるから、気長にお付き合い頂けると幸いである。


①でも記したが、今回のアダプトプロジェクトは大変に挑戦的な物であったと感じる。言い換えれば特異としても差し支えない。それは何故か。絶対に外せないのが、この2年に及び今なお続く「禍」の存在であろう。世界的に様々な活動が止まり、各々が脅威を前に思案し選択し適応してきた。そして今、世界情勢はまた別の不穏な空気に包まれている。格差、恐慌、戦争……何も政治的なことを語りたいわけではないからこれらの詳細をここで綴るのは控えるが、間違いなく歴史書に連なる時代の上で我々は今を生きている。パラダイムシフトの真っ只中にいるのかもしれない。時代の転換期であり、その後には黎明期がやってくる。そんな中で表現者として、いま何を語るのか、ここから何を創るのか、それは決して避けることのできない道であろう。もちろん、それらに触れないと決める者、ストレートには明かさずとも潜ませる者、直接的に声をあげる者、様々なタイプの表現者がいることは理解している。それらの中において、彼らはその「不安」に寄り添い、そこに漂う「雰囲気」を代弁してきたバンドだと認識している。だからこそ、今ライブにはコンセプチュアルな「物語性」が必要であったのだと考える。そして筆者が感じたそのコンセプチュアルな「物語性」については、①〜⑨で長々と綴ってきた通りである。
「禍において巻き起こる現象にどう適応してきたか、どう適応していくのかを体現する」とコンセプトが謳われた今プロジェクトは、この「禍」がなければ、間違いなく違った形でのライブやリリース形態になっていたことだろう。きっとそのタイトルだって違ったはずだ。そして、それは筆者とて同じことである。平時であればきっとこんな風に丁寧に咀嚼せず、長大な文章を綴ることもなかった。外の世界へ出ていたに違いない。これが今の気分、遊び方だったというだけだ。

次に、その「コンセプト」を舞台セットに絡めて綴りたい。今ライブでは、何かを象徴するかのような大掛かりなセットが組まれた。依然その明確な説明はなされておらず、鑑賞者に委ねる形となっている。その真相は来る2022年3月30日リリース予定のCONCEPT AL「アダプト」に付属する特典ガイドブックに記されるような気がしているのだが、ひとまず各ライブを終えた現時点での筆者の解釈を綴ることとする。

アダプトタワーとは何だったのか。

アダプトタワー→既存の大きな枠組み(社会体制や世相、システム等)
サカナクション→音楽そのもの
川床明日香→我々リスナーの化身であると同時にバンドの創作の源(=内面)を視覚化した概念的存在

であると筆者は解釈した。噛み砕いて続けよう。まずタワーは上述の通り「既存の大きな枠組み=檻」としての存在であると考える。①で記したが、この考えに至ってから、スタートのサーチライトが灯台のあかりから監視されているかのような奇妙な感覚に変わったのである。タワーは常にそこに存在し、その色は変われど形を変えずに鎮座する。それは社会性やその秩序を守る物として機能しているわけだが、見方を変えればひどく不自由で我々を縛り付けるものでもある。そして、その中にいる「川床明日香=我々でありバンドの内面」は混乱し焦燥と苦悶の表情を浮かべ右往左往していた。それは次第に落ち、病み、打ちのめされ……。その傍ら「サカナクション=音楽そのもの」の音が鳴り続ける。サカナクションを=サカナクションとしなかったのは彼らのこれまでの歩みや想いを汲んでのことである。彼らは自分たちのバンドのことだけを考えているわけではない。このシーンごと考えている。⑧で触れたNFの活動を通し、クラブミュージックや別アーティストらとのハブとなり、他界隈の文化芸術やアパレルにまでその関心を寄せ、またそれらを我々に結び付けることでカルチャーへの還元をも試みている。話をもう少し広げたい。筆者が=音楽としたのは、他にも音楽を止めることなく活動しているミュージシャンやアーティストがたくさん存在するからだ。筆者自身、それらたくさんの音楽に救われ支えられている。そういったシーンに対する感謝と敬意でもある。逆に失礼かもしれないのだが、愛を込めて=音楽そのものとさせてもらった。さて、話をライブに戻そう。物語は進み、例の手繋ぎがやってくる。あれには「手を伸ばしさえしてくれれば音楽は常にあなたと共にある。手を取り合い一緒に乗りこなそう」というメッセージを感じた。それは各会場アンコール時に語っていた山口一郎のMCとも重なってみえる。そして第二幕よりその檻を抜け出てライブは進む(ただこれはONLINEにおいての話だ。TOURではリスナーがおりステージ下に降りることはそもそも不可能な訳だが、この差異も感染症対策等の様々なルールに準拠している=檻の中ということの比喩なのだろうか。いやいやさすがに深読みし過ぎか……)。終盤には⑨で記した通り、タワー上方で川床明日香は小気味に跳ね、序盤に感じた不自由さからは解放されているように映る。そしてそれは同時に、バンドの創作も今までの枠組みから離れることを意味し、次へと進むことを示唆するようにも感じられた。

では何故、このような舞台装置が必要だったのか。それは先述した「コンセプト」と「物語性」を補完するためであったと考える。今ライブはプロセスエコノミーの色が極めて強いと感じた。つまり、ここまでの様々な過程が価値として付加されているのだ。しかし、その全てを追うのは正直なかなか難しかっただろうと思われる。筆者だって深夜の配信はいくつか落としている。逆に、配信は全く見ない、リアルライブだけで良いという層だっているはずだ。ゆえに、その感動には多少のバラつきが生まれるだろう。何も今までのライブだって見解や解釈にバラつきが出るのは当たり前のことであるし、それが健全だとは思うのだが、コンセプトを敷いた以上はそれを伝える手段が必要となる。そこでライブにおいて抜擢されたのが「演劇」であり、それを可能とさせる装置こそが「アダプトタワー」だったのではないだろうか。「禍」においてどう適応してきたかのひとつに「SAKANAQUARIUM 光 ONLINE」の存在があると思うのだが、今回もメインはそのオンラインライブに置かれていると感じる。様々な事情を抱える人々が平等に参加できるONLINEにその主眼があり、それを今回さらに進化させつつ、TOURではその裏側を覗き見る、答え合わせをする、そのような感覚があった。そこから何を感じるか、どう解釈するかは人それぞれであるが、そういう意味と機能があれらにはあったのだと筆者は読み解いた。


さて、ここまでがその「コンセプト」と「物語」についてである。
ここからは全体を通して筆者が感じた「メッセージ」について記していきたい。


今回のライブでやはり大きく感じたのが、物事の二面性、それが同時にあるという表裏一体と二律背反、そして行き着く先は多様性の本質である。

ここまで①〜⑨で書いてきたため重複する箇所については省くこととするが、各楽曲において二面性と表裏一体に二律背反を感じる場面が多々あった。そして視点と思考は常にその間を揺蕩い続けていた。つまりそれは、何かしらの事象に対し唯一解は存在し得ないということを示唆しているように思えるのだが、それでも実生活においては苦悩しながらも選択し続けなければならぬのが人の暮らしである。①で書いたことと矛盾するようだが、白か黒かを決めねば進めないのもまた事実なのだ。これもまた二律背反である。そして、前項で記した最終曲『フレンドリー』ではその難しさや虚しさが唄われていると考えられる。

その中でキーとなるのがやはり、

"君に優しくしたいな"

という一文であろう。

立場によって正義は変わる。言い分も想いも。この世界は様々な色(個性や価値観その選択)が重なり合いながら成り立っているのだから、それは自然なことである。それを踏まえた上で、という話が「多様性の本質」に繋がる。

まずここで、優しさについて記したい。筆者が思うに優しさとは、相手を思いやることであり、それには想像力が必要であると考える。もっと平たく言えば、相手の目線に立って物事を考える力、ということだ。

少し自分の話をしよう。恥ずかしながら、筆者は相当に短気な性格をしている。所謂、癇癪持ちというか、俗に言うキレ症というか、そういう自分の凶暴性について自覚がある。それが堪らなく嫌で、アンガーマネジメントという心理学を学んだ経験がある。アンガーマネジメント、つまり怒りをマネジメント、コントロールするという考え方だ。これにより随分、自分の性格と上手く付き合えるようになった気がするのだが、本題はもちろんそこではない。この自己開示をした理由は、その怒りの感情にある基底について理解して頂きたかったからだ。その基底には「〜べき」という価値観が存在する。「こうあるべき」「こうすべき」という考え方。それは何も間違っていない。それこそ"正しい正しくない"とは決められないものである。先に書いた通り、それがその人の価値観なのだから。だが、ここでひとつ重要なことがある。その価値観は人それぞれ、ということである(その価値観が成長過程においてどのようにして構築されるのか等も並べた方が理解しやすいのだが、あまりに冗長になり過ぎるのでこの辺で腰を折ることとする)。

さて、人間はその価値観という物差しを使って物事と相対する訳である。それを持ってして目の前にある事象を測り、都度選択と判断を繰り返す。その中で、その「〜べき」を相手に押し付けることで、またそれが自身と異なる際に、怒りが湧き争いが生まれる。

筆者は別に、いつ何時、何に対しても誰に対しても優しくあれ、と言いたいわけではない。怒る場面だって必要だ。戦う時分もあるだろう。嘆きたい事柄だって。それぞれ意見を交わすことができた方が健全だ。そう、意見。意見や考え方はそれぞれあって良いのだ。異なっていても良いのだ。『フレンドリー』でも唄われる通り、左も右もあって当然なのだ。それが当たり前なのである。その上で、戦う相手や使う言葉を見誤ること、これが問題なのだと考える。つまり、それらの感情をコントロールできないこと、それが問題なのだ。いたずらに他人を傷つけること、必要以上に悪意ある鋭い言葉を使うこと、執拗に誰かのミスを追い立てること、上から目線で何かを嘲笑うこと……『エンドレス』を経て、そういった物事を後ろから見た時、僕らは何て言おう。何て言われよう。どんな色をつけようか。そう考えてきたはずだ。しかし、これすらも筆者の価値観であり、今これを読んでくれているあなたに押し付けるものではない。

では、何が言いたいのか。ここでようやく「多様性の本質」に行き着く。多様性多様性と巷で騒がれ始めてもうしばらく経つが、その言葉だけがひとり歩きをし、意味の浸透や理解が追いついていないのではないだろうか、と筆者は感じてならない。と言うのも、その言葉に乗じてマイノリティ側の意見「のみ」が優位に立つパワーバランスを感じる時があるからだ。もちろん、マイノリティ側の意見が平等に聞かれ理解され守られる。これはとても素晴らしいことである。しかしそれと同時に、マジョリティ側の意見もまた平等に扱われる必要がある。また、今までマジョリティであったはずの意見がマイノリティに逆転し、古い、時代遅れ、ナンセンスだと非難される。……こういった場面を見た時、筆者は多様性とは?と感じる訳である。言葉だけがひとり歩きをし、違う差別や攻撃が、新たな分断が生まれているだけでは?と。そういった自身の考えに『フレンドリー』が深く沁みた。

ここでサカナクションの歌詞やその発言以外から言葉を引用したい。金子みすゞの詩「私と小鳥と鈴と」から一節。

「みんなちがって、みんないい」

これこそが「多様性の本質」ではないだろうか。意見も考えも、応援の理由や推し方も、発言も発信も、もう生き方の諸々において。もちろん法を犯すことは別としてだが。これは基本的人権は自由権における精神の自由に該当するそれであろう。

それを考えた時、その怒りは本当に必要な怒りなのだろうか。その剣を振るう必要はあるのだろうか。そんな風に筆者は思ってしまう。

道徳の時間のようになってきたが、
つまり「人は人、己は己」である。


『フレンドリー』はやっぱり『エンドレス』の続きにある楽曲だと考える。今回のライブの締め括りにしてプロジェクトの要となる楽曲であろう。

ここで①に書いた文章を引っ張ってきて、この項のまとめとしたい。

「色は混ぜ合わせることで無彩色となる。そしてその見え方は人それぞれに異なり、光の反射率によっても変化する。ゆえに、今ツアーのテーマカラーに抜擢されたのが、無彩色の中において中間点にあるグレーだったのではないだろうか」

これを踏まえて筆者は、

グレーの『カーディガン』のようでありたいと思う。

もちろん場面によって、グレーは白になり黒に変わるだろう。その上で『カーディガン』のような柔らかさを持ち合わせたい。左とは温め合うことができ、右とはぶつかり合うことなく往なすことができるように。傷つき千切れたり解れて穴が空いたりした時には間に戻って繕ってもらい、誰かがそうなった時には率先して繕いに行く。そんな風でありたい。


これらは理想であり綺麗事かも知れない。机上の空論かも。それでも。それでも、筆者はそれが好きだと言い続けたい。そして、それがないと何も生まれないのだ。何も変わらないのだ。理想から現実ができあがるのだ、と。


やさしくありたい、そう思う。 めめ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?