たこやきレインボー・彩木咲良さんに見る新しいアイドル像
今日は推しについて書きたい。私の推しはたこやきレインボーの彩木咲良さん。まだまだ好きになりたての新参者のオタクだけどいつのまにかすごく好きになって、この一年足らずの間に急スピードで沼にinしてしまって今現在もすごい速さで沈み続けている。
彩木咲良さん(ここからは「さくちゃん」と呼びます)の魅力を書こうとしても、まだ知らないことだらけの新規の私には語れることがあまりにも少ない。それなら、私がさくちゃん推しになった理由を書こうと思う。
私がさくちゃんを好きになった理由は、「女の子」であることに囚われていないからだ。これだけだとあまり伝わらないかもしれない。
「女性アイドル」は、自分の中の女性性と嫌でも向き合わないといけない職業だと思う。アイドルじゃなくたって社会の中でそういうふうに見られることはあるが、アイドルは特に自分の女性性を武器に戦っていて、自分の上手い「魅せ方」を研究して自己プロデュースすることを求められる。男性アイドルに当てはめても同じことが言えるのかもしれない。
でも、さくちゃんは自分の「女の子」の部分を主張しない。「女の子」であるというよりも「人間」としての等身大の自分でそこに立っているように感じる(もちろん自分の可愛さを意識的に魅せていくのもアイドルとしての生き方の一つだと思う)。
語弊があるかもしれないが、まったく媚びていないのだ。それはオタクへの対応にも言えることで、「アイドルとオタク」のイメージとしてそこに演者側と観客側というある種の上下関係のようなものが成り立つと思うのだが、さくちゃんがオタクに対する時すごく対等な感じがする。ものすごくフラットで、人間対人間として向き合ってくれている気がする。そこが人としてすごく信頼できるなあと思う。
ステージに立つさくちゃんはいつもかっこよくて、「かわいい」なんて軽く口走っていいものか悩むくらいに気高い。でも配信やYouTubeで見せる姿は、面白い時はケラケラと笑ったり急に奇行を見せて周囲を困惑させたり無表情で寄せられるコメントをガン見していたり何も取り繕っていない。『家にいるTV』での様子はくつろいでお腹を見せる猫みたいだ。
「アイドルとはこうでなくてはならない」というしがらみに、さくちゃんは反抗するでもなく賛同するでもなく、それらを軽やかに翻してただただ自分であろうとしている。否定も肯定もしないし誰に消費されることもなくそこに存在している。それなのに説得力があるのは、この人が根っからの表現者だからなのかもしれない。
正直この曲聴いてもらったら私の書いた文章なんて読まなくてもわかると思う。「だけど私は女の子でアイドル」という結び方に痺れる。こういう表現ができる人だからこそ、説得力が生まれるんだろう。
とはいえ最近のさくちゃんは女子力を上げることを頑張っているようで、ますます頼もしいなあと思う。「女の子」であることを楽しめたら、さくちゃんのキラキラはもっと増していくんじゃないかな。そうやっていろいろな養分を吸収してパワーアップしたさくちゃんを見ていけることが私の楽しみである。
追記
たこやきレインボーには天性のアイドルみたいな人もいれば、理想のアイドル像を持ち高みに上り続けるような人もいて、だからこそさくちゃんはさくちゃんのままでいられるのかもしれない。
たこやきレインボーは5人で5色のメンバーカラーが振り分けられているが、見える色はその5色だけではない。白もあれば黒もあって、たくさんの色が「たこやきレインボー」というグループ名に貫かれている。「アイドルとしての多様性」を表しているグループだと思う。
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