「もし自分の子供がLGBT当事者だったら」という問い

普段は「ただのだらだらと幸せなカップル」として生活している私たち、日常では「LGBT的なさまざまな問題」について、いつもいつも深刻に、真剣には考えて生きているわけではない。それは私たちの生活に困ったことがないということなんだけどね。しかし今日仕事しながら、前に人と話したことを反芻してたら、ある気持ちが唐突に湧きあがった。

「今もこの問題で悩んで、死にそうになっている人が日本、世界のどこかにいる。」

「死にそう」とは自死であったり、悩み過ぎた上での精神疾患だったり、また差別のせいで就職が上手く行かず生活が安定しない、貧困に苦しむ人も。いろんな要因で「死にそう」であっても、根っこの要因は「LGBT当事者であること」。

私がLGBT的問題についてやっていることと言えば、こんなお客さんの少ないブログでたまーに啓発活動しているくらい。自分が特に困ってないからって、そんな甘ちゃんな態度でいいのか?日本のどこか、世界のどこかに、この問題に悩んで今にも死にそうな人がまだいるのに、お前無責任じゃないのか?


カミングアウトできる人の役割

LGBT的な人々の存在が日本でも認知されるようになり、心ある人達は「そういう人がいても差別しないよ」と言ってくれるようになった。これは素晴らしいことだ。本心の部分がどうであれ、社会的に「LGBT差別はなくさないといけないこと」と多くの人が思っていれば、行政や民間の制度がそのように変化していくはず。

社会的な受け入れ態勢が整えば、もっと身近で切実な問題である家族へのカミングアウトもやりやすくななる。個人のカミングアウトと社会的な雰囲気作りは、どっちが先という問題ではなく相互作用が働くもの。カミングアウトできる人は自身の存在をどんどんアピールし、「LGBTの存在は特別なものでも、特殊なものでもない」と世に知らしめる役割を果たしてほしい。そういう人が増えることで世の中の空気が変われば、今はクローゼットの人もいつか本来の自分を周囲の人に知らせることができるかも知れない。


「もし自分の子供がLGBT当事者だったら」という問い

日本の社会がLGBTに対して、受け入れ態勢を整えつつあることは感じられる。でもそれってまだまだ「綺麗事」の域を出てないかも。「社会にLGBT当事者がいること」と「家族にLGBT当事者がいること」の間には、個人レベルの感覚としてものすごい距離があると思うから。

今までに何度かLGBT当事者ではない人に「もし自分の子供がLGBT当事者だったら」という問いかけをしたことがある。答えは大きく分けて2つ、「受け入れられるよ〜、だって自分の愛する子供であることには変わりないでしょ?」「すぐに受け入れるのは無理かもしれない。人と違うということが怖い」どっちも分かる。

でもこの問いかけ自体が甘かった。だって「もし○○だったら」なんて、起こりえないと思ってることを聞いてるに過ぎないんだもん。違う、起こりえないことじゃない。私自身も含めていーっぱい起こってること。……なんかこういう言い方してると「やっぱりLGBTであることは望ましくないこと」みたいに響く。うーん、哀しい。


悩んでいる子供たちがいる

この問題は遠いどこかで起こっていることではない。誰でも多分、生きている中で一度はLGBT的な人に会っているはずだ。相手がカミングアウトしてないから気付いてないだけ。そしてその多くの人は、LGBTであることで何かしら苦しんでいる。困っている。私みたいにのんきに生きている人の方が稀だ。

クローゼット、オープンに関わらず、大人でありそれなりに自分の生き方を見つけている人はいい。でも子供は?自分の在り方が、どうも周囲の多くの人と違うと気付き始めた子供は?自分の在り方に気付く前に「これが正常、こっちは異常」と教えられてしまう子供は?情報という武器を持たない、自分なりの価値観を確立できない子供が「自分はみんなと違うかも知れない」と思ったらどうすればいいのか?


全ての人がLGBT関係者

さっきの問いに戻る。「もし自分の子供がLGBT当事者だったら」、この問いかけをした相手にはお子さんのいる方もいた。問いを受けた人は「まさか自分の子供がLGBT当事者かも」なんて、多分想像もしてない。でもでも、もしかしたらそんなあなたのお子さんが、今まさに悩みの中にいるかも知れないのだ。

本当に幼い子供のうちから、自分の在り方に悩み始める人もいる。そんな時に一番身近で信頼できるはずの相手である親から、少しでも拒絶されるようなことを言われたら……私なら生きていられない。お子さんのいる方、小さな子供が身近にいる方は、本当に言動に気をつけて欲しい。

私がLGBT当事者であるように、自分自身は当事者でなくても、自分の子供、兄弟、もしかしたら親、友人、同僚、意外に身近な人が当事者である可能性は十分ある。だから、皆が「当事者」「関係者」である自覚を持って生きてて欲しい。


小さなことからでも

今まで「自分は困ってないから〜」と、気が向いた時だけ啓発的な記事を書いていた。でも何かそれだけでは足りない気がする。「幸せな同性カップルの生活」を見てもらうことも十分に意味があると思うけど、もっと切実に問題の実情を伝えることも必要なのかも知れない。

今は自分に何ができるかよく分かってないけど、とにかく何でもいいから、小さなことでいいから、自分のできることをしようと改めて思った。

私の文章に少しでも「面白さ」「興味深さ」を感じていただけたら嬉しいです。