17歳から19歳
17歳から19歳までの私の呟きが携帯のメモに残っていたので手を入れずに纏めました。読めたものではありません。然りとて、消してしまうのも何処か、後ろ髪を引かれる思いになり、ただ此処に残します。
ゆうべみた蛙の亡骸をどこか安まる場所に埋めてやるべきだったと後悔しました。
言葉は横着で、いつも足りず、どこか余計なお世話。
あなたのその言葉、そこへ達するまでのあなたの過程の全てを汲み取ることは、私には出来ないのです。
だから私はあなたが私よりも億倍の苦悩を抱えていると、身勝手に思いたいのです。
私の中の無形の鬱や感謝や安寧をどうか私に関わる、私の迷惑を被る方達に、欠けることなく伝えられないのでしょうか。
私が悲観を覚える今のあなたにかける言葉や表情と言う名の共感は、たとえその場で効力を果たさなくても、何の意味を持たなくても、あなたが温かい牛乳を飲む時、その安まりに一欠片でも思い出してくれる事を望みます。
そこに居るだけで誰かを傷つけているのだと、あの言葉の薄情さが、私に安堵と感傷を与え、中身のない水を疲れ目から流す。
誰も傷つけない幸福を私にどうかくれませんか。
私の尊厳は、普段に考える浅学的な哲学しかありません。しかし、この思考は何よりも優美であると自負したいのです。
この世では不平等がという前提が基盤にあり、その人が受け取られる幸福は生まれ落ちた瞬間から決まっている。
平等という言葉が出来たのは、不平等が蔓延る世界に対して、恵まれない誰かが戦った戦果の証といってもいいと私は常思うのです。
その勇敢さを讃えない多くの人間に私は抗議したい。私にとって、好きな歌手の言葉に落とす涙がその抗議の証なのです。
映画の中で平等を訴える少年の未来には希望が僕よりも満ちる様に羨ましさを感じるのは、やはり嫉妬という言葉で片付けられてしまうのでしょうか。
生まれた時から敗者か勝者が決まった世界に生きる意味を私は感じない。限界だと感じたその幸福でさえも、他の誰かにその限界を邪魔されているのでしょう。不幸を叫ぶあなたでさえ、誰かに絶望を与えているのです。
只今、一端の口を叩く私でさえ、その限りなのでしょう。
私があと少しの恵みを与えられていれば、今の理想は叶い、幸福と呼べる人生を生きられたかもしれません。高望みはしたくない。
その恵まれた私もまた、少しの恵みを要求するだろう。
持たざる者は言葉を投げかけることも、平凡を望むことも、求められない。ならば僕は、せめてタンポポやみじんこになりたかった。この考えは彼らへの侮辱か。見下しか。なら望まない者に生を与えること程、罪なことはないだろうに。
人は誰かにもたれかかって生きると言うけれど、私には無機質な壁がちょうどいい
望んだものになれないのなら、私はタンポポかベランダから見えるこの優美な景色になりたい。
18歳
私が唯一私に誇れる物は、誰かの気持ちを解ろうとするこころみですが、それは虚しくも金ならない。
醜く足掻く美しいものや、優麗な芸術に心から涙を流せても、それらに何かをしてあげることが出来ない歯痒さが、私の尊厳だと言えるのでしょうか。
哲学は金にならない
世は私にとっては大変憂鬱なもので、弱音を吐けば怠慢で、自分を満たす為の向上心を持てば、気付けはそれは競い事。比較と効率性。物質的な思考が贔屓されて、ふと草むらに立ち止まって葉虫を眺める者には白い目。技術は他人を計る天秤で、人は血眼に中庸を求めて。他者には盲目。先は何時も朧気。
不足してる事に不満を抱えながらも、生きているそのアイデンティティに価値を見出していたが、本当の価値を見出さず、そのアイデンティティをなくす代わりに、今までの不足分を全て補う。しかし、結局は満たされない。
目も凹凸も生殖器も髪も人類が持ってなかったら。
予行演習無しに不器用に鳴る電車のこの音が、調子の悪いイヤフォンから流れるあの音楽と何故か息が合う。
人は生まれながらにして不幸で、幸福か不幸かその葛藤の中で過ごす。しかし、その葛藤を得られるのが幸福なら、生きる上での無数の傷を得られるのが幸福なら、その経験をしない者との差は歴然。果たして、それに意味があるのか。死んでしまえば元も子もないが、答えが出ない問題に頭を抱える事をやめた時が、自分にとっての死と定義。
私がこの思いを持つならば、少なからず一人は同じ思いと境遇を共有できる人がいるであろうという、あなたのその希望的観測と慢心と、無礼さが、周り回って、誰かを救う。
楽に死にたい、痛みを感じずに死にたい、眠りながら死にたい、そういうと覚悟が足りない、ただの怠惰、本当に死ぬ奴はそんなことは言わない、誰だお前、本当に死んだ奴の何を知ってんだよ、死に方に選択を求めてはいけないのか
苦しい事から逃げたい時にまで、甘えては居ないのか、自殺が何故そこまでに否定され、勇気のある行動と称賛されないのか。
社会の流れに従えない人間は、日本を出たところで生きにくい。
ここに来た目的は何なのかと、ふと考えるが、理由を持ってい無い事に対する羞恥とその先の恐怖の為に、思考を止める。意思や理由を持ってきたのだというあやふやな自信に、確信が持てなくなった時に、私ばわたしの何も持たぬ事実に憂いて、来たのだと、アイデンティティを持つ為に迷惑をかけて、遂には裏切ったのだと考えると、生きる意味とは。今は適切な語彙を探すよりも、この哲学と思想を早く書き留めたい、これを忘れたら自分には何も残らない、こんなに嫌いな世の中でも、自分の存在の軌跡を残したあという欲求はわたしの内側から生まれているのか、それとも、生物学的な人間元来の意思か。社会を作って、規則の中で生きて、思いを共有して、それが私が本来持つべき、真相の原点の筈だが、自問自答のアンケート結果では、そうでは無いらしい。いわば社会不適合、パライヤ、整った平凡な世界はわたしにとってサバンナ、かたや、憧れるあなたは、上手に生きているように見える、本心は知らないが、それなら、あいつは浅い人間なのか、私は自分が深く考えを及ばせていると自負しなければ、実はそうではないと自認してしまう程に、諭されたならば、確実に自決するだろう。ただ幸か不幸か、私を言い負かす者には未だ出会わず、自分自身だけ。
ギターケースを背中にしょった白髪の少し苛立ち気味の表情をするあの人が、どんな人間よりもカリズマリックに見えた。趣味の象徴と童心への重さ。
こんな時代だから出来ない事は山のようあるけれど、こんな時代だから辛うじて出来ることもある。
辛い出来事のあとの安い煙草の方が、大富豪の高い葉巻よりも美味しい。
世の中の全ては相対的だから、不幸がなければ幸福は感じられ無いし、不幸が続けば、一瞬の幸せは普段のものよりも輝く。不幸がなければ幸福が感じられないとは、くだらない世界。
人を恨むよりも、その恨みたい程の人間の抱える苦悩も読み取ろうとする事が平和につながるのではないか。でもそれは傲慢か。
失敗した事なら数え切れないけれど、星の数程の失敗があったからこそ、この哲学と思想が生まれたと思うと、これが完璧なのかもしれないし、優しさもいき過ぎて、人からは卑屈と捉えられる自分自身が結局自分が好きなのかもしれない。自己嫌悪と慰めを繰り返すだけのくだらない生き方も、こんな生き方ができるのは私ぐらいだと自負して、そうしなければ自分には何も無いし、私が持てる最後のアイデンティティは優しくありたいという、少し偏ったエゴにと捉えられるこの思想だけだろう。
気付けば19歳。まだ子供だと、若いと、子供であると扱われる歳で一生止まっていたい。私にはまだ時間があると、子供なのだから許してもれる環境に一生すがっていたい。他人の目を気にしている事が私の価値の全てでは無いし、そう言った思想に真っ向から争うのが私だけれども、どんな人間だって無意識に承認欲求を満たしたいものだ。何も無いまま歳をとり、冷たい視線に晒されて病や老衰で死ぬくらいなら、死に場所と死に方ぐらいは自分で決めたいものだ。若いまま綺麗になくなりたい。
幸福とはいつも相対的だから、幸福ばかりが続く世界では、最後には何が幸福なのかを見失ってしまう。それなら、不幸続きの僕の生活は、いずれくると願う小さな幸福が訪れる確率を持った僕は、幸福と呼んでもいいのかもしれない。
私は私に対して、優しく、丁寧に、好きになれないから、他人に対してはいつも優しくありたい。
人生を生きることに全く意味など持たされて居ないし、生まれてくる事を望んだわけではないけれど、そんなつまらない世界で少しは楽しく生きてみようともがいてみるのもいいかもしれない。それには意味はないけれど。
私が生きているのは大凡昼から夜の11時まで
文豪なのに自身の作品に対して自信がないのか、認めて欲しいのか、どんな芸術も評価されるべきじゃない。芸術家に対する評価は全て曖昧で明確にするべきじゃないと思う。明確に評価すれば思いもよらない形で傷つけしまうかもしれないし、作品をいいと思うなら、素晴らしいの一言であるべきだろうに。
就職しなかったり、ある程度他人と同じじゃないと白い目で見られたりするだろうけど、気にするけどあんまり気にせんし。なんなら本とか詩も書きたいし、曲も作ってみたいし、死にたいって思うけどやりたい事のためには時間が足りんわ。
人生はまるで雪のようで、新雪は柔らかく美しく、誰かに踏まれた雪はやっぱり汚い
発展途上国と呼ばれる地で暮らす、まともに食べ物にもありつけない子供達の苦悩は僕たちの日々の退屈さと憂鬱と何ら変わりはない。辛さは第三者に量られるべきではないし、常識は普通は生きる人の思想や価値観で異なる。それでも、僕たちは常に比べてしまう。
あの時優しくしておけばという後悔をしないためにも優しくありたい
また明日が始まる思うたら、寝たくなくなるんよね。寝んかったら朝がこんのんじゃないか思うても、結局の所くるんよね
最近は学校をサボるのも、amazarashiを聴きながら空をみて煙草を吸うのも、楽しいと感じる事ができる。それもこれも、貴方がたくさんの助言をしてくれたからで、私の友達が間接的にカナダでの生活を楽しめるように助けてくれたからだ。
単細胞が一番平和。知性を持ったら平和じゃのうなる。
蓋の隙間から争い、こぼれる自己顕示欲、押し付けがましい恋と愛おしい人を守りたいという愛、その愛すらも道端すれ違う他人からは押し付けがましい劣情か。
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