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春爛漫

今年の東京は早春にかっと咲き乱れた桜に彩られ、その桜も早々と来年に向けての身支度を始め悲しく縮こまり、また葉桜へとその様相を変えると同時に薄紅の花弁が地面覆い、風に煽られ、まだ四月下旬だと言うのに、あの薄ぼけた可憐な色が東京に彩られ始めてから私の古ぼけたスニーカーの靴裏に張り付いた花弁は多く見積もって4、5枚と言う具合で、既に忌々しい梅雨の気配が菜種梅雨と共にぺちゃぺちゃと音立てながら早足で向かってきている。

私は四季の中でも春の季節を最も愛している。私をそう思わせる要因が、その時期の日照時間の多寡とそれが人体へ与える良質な効果に依るものである、などと、所謂自然科学的な事実を受容することは些かさもしい思いがするので逃避したい。私が春を好む理由はもっと崇高で神秘的なものに依るのだと、そう肯定しなければ私は気が済まない。殊によると、人は私のこの述懐に対して、こいつは何を言っているのだ。凡そ人生に辟易して傷心したある時期に胡散臭いスピリチュアルにどっぷり浸かって、今では毎日頭にアルミホイルを巻いて、公の場で敢然と5Gがいかに恐怖されるべき存在であるか喚き散らし、社会生活を真面目に送る世間の人々に迷惑をかけているおっぺけぺーの気狂いに相違ない。とあるいは思うかもしれないが、何がさて私はこの短い人生において春という尊い季節に救われているのである。

例えば恋人の名前は最も知られた春の季語であり、彼女は七月の生まれであるのにも関わらず、その姿は絢爛且つ快活で、同時に薄氷のような刹那的な美しさを秘めている。春そのものである。加えて私の身体はいつも春になると活力に満ち溢れ、心もまた慈愛に満ち、殆どキリストという様に成る。又、私は冬に生まれたから、寒気の凛々と染む薄暗い日に絶望して慟哭して、それがうぶ声ということになり、ふた月を過ぎて、春の毛布の様な陽光を初めて浴びて癒されたのだと思う。そうして誕生の憂いが幾分かは晴れて、自身の宿命に折り合いをつけたのだろう。これはまったくもって大袈裟ではないのだ。春という季節がもたらした大海の一滴が、私を今尚生かしているのだから。

然れども、瞬く間にこの春の風は消えてしまうのだから悲しいね。何故ならば、冬になると死神が外套を纏って訪れる。冬にサイコロを振っても願った目は勿論出ない。冬に街を歩くと阿保烏に糞をかけられる。冬になると否応なく足を骨折する。冬に電車に乗るとドアに挟まれて一本乗り過ごす。そうして冬になると人々は焦燥に煽られ、不平して、不満に満ち満ちて、叫喚し、冷酷になる。冬に人助けをすると、お礼の代わりに唾を吐きかけられる。冬になるとみんな満身創痍で、孤独である。それでも私は冬を嫌いになれない。寧ろ好んですらいる。中々思い切れないのだ。

しかしながら冬を過ごすのは並々ならんことであるから、やはり、春のうちに髪を切りに行こうかと先日から一日に再三再四考えている。冬に髪を切るなんて無謀はいくらこの私であっても犯せない。何か、こう、春に合う髪型にしてもらいたいのだが。

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