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早稲田卒ニート182日目〜純朴な喜びを再発見するとき〜

少し前から興味を持っている京都のフランス哲学研究者が、博士課程4年目にして、学会に対面で参加するのが初めてだったそうだ。いろいろな人といろいろなお話ができて楽しかった、と言っていた。これは大変素朴な感想であるが、この素朴さこそが重要なのだと思う。

コロナ禍に陥って、授業は対面から映像へという可能性を、それまでの潮流を後押しするかの様に拡大したかも知れない。我が母校早稲田の総長である田中愛治も、オンライン授業の新たな可能性がわかったとか発表したのが、私が学部4年の頃である。そのとき学生生活アンケートだったかで、私は、そんなことを平気で言う総長に対する教育的批判のメールを送った。送信から3年、未だ返信は無い。

仮にコロナが明けるとして、先のフランス哲学研究者の様に、改めて対面することの楽しさを現実の手応えとして感ずる人がこれから増え始めるかも知れない。ただしこれが、今まで面と向かって会うことができなかったという背景を抱えるがゆえに生まれてくる内面であって、対面できることが当たり前だった人間にはこれまで通り映像の効率良さが尊奉され続けるのかどうかということは、これから時間をかけるにつれて明らかになっていくことだ。会えることが嬉しいことだという素朴な感情は、果たして復権されてくれるだろうか。


わずか数本の収録をしたくらいで映像をメインにやったことがないため、対面との違いを比較して言及することはできない。が、これが画面越しだったらと想定してみると、やはり同じだけの反応を得られる気がどうしてもしない。

今、中学生の授業では、私の「名言録」なるものを作り、それを首から下げるIDカードケースにしまって携帯している生徒がいるらしい。名言を言った覚えもなければ、私がそんなことを言えるはずもないので、ただの平凡な話の何かが彼の心にたまたま突き刺さったに過ぎないだろう。また、授業が終わった後は毎回、私の授業について生徒が集まってディベートをしているという。例えば「死」の問題について迂闊にも喋ったりすると、そのお喋りを基に侃侃諤諤しているらしい。これまた所詮は若造の平凡極まりない退屈な話でしかない。が、そのような平凡で退屈な話も、対面だからこその伝わり方というものがある。目の前に生身の人間がいるという状況が、言うに言われぬ力を私の言葉に与えるのである。端的に言えば、実力以上の力を引き出してくれるということである。

わざわざ対面することに余計な理屈をこねくり回す必要はない。対面するってのはいいもんだな、という純朴たる思いだけで、十分すぎるほど十分である。しかしどうも今は、そういう質素な感情の価値が見損なわれている様に思う。

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