見出し画像

早稲田卒ニート162日目〜腹痛よ、私は君に感謝をする〜

「お腹が痛いので休みます」。仮病を使う際の常套句である。この文句を垂れる奴がいようもんなら、たとえ口にはせぬとしても、仮病権の行使であると周囲は察知する。「お腹が痛いので休みます」は、「仮病を使います」の類義語なのである。

私はそういう同級生を、「どうせならもっと悧巧な嘘をついたらどうなんだ」と半ば侮り、といって自分が仮病を使う際は、朝学校に保護者を装って電話をし、ただ「体調が悪いので休ませます」としか言えなかった。上手な嘘とは、案外難しいものであることをその時よく知った。今思えば、高校生であるとバレぬよう声を低くして父を装ったり、訛った口調を取り入れて祖父を装ったりしていたのは、あまりに滑稽なことである。

どうであれとにかく、仮病の象徴としてみなされる腹痛は、数多ある病気の中でも軽んじられやすい。大病ではないから少し休めば治るだろうし、かといって無理をさせるわけにもいかないから安静にはしておかせる必要がある。そんな都合の良い痛みである。

私は滅多なことで体調を崩さない。社会人になってからは、「僕が体調不良で休むことがあったら、それは仮病だと思ってください」と言っていた。結局、体調不良での欠勤は無かった。まあそうあるもんではない。が、今朝は猛烈な腹痛に襲われてうなされた。もう何年振りのことだろうか。恐らく、飲んだ水が良くなかったのが原因である。あまりの痛みに、からだをよじりながらのたうちまわり、更には呪詛のような叫びをあげそうになったが、虫の鳴き声しか聞こえない早朝の澄み切った時間であるからそれは堪えて、歯を食いしばりながらもがく他なかった。今までに経験のない寒気、冷や汗、脱力感といった諸症状に、健康が危険にさらされた。

しばらくして、あれだけ私の存在を脅かした痛みも最早どこ吹く風か。もうこれで痛みから解放され、すっかり安心して日常へと回帰することができる。ああ、よかったよかった。と、これは確かにそうである。そうではあるが、今私は不思議な思いに駆られている。あれだけの身悶えを到来したあの痛みが、ヤケに恋しいのである。当然痛くなんかない方がいいに決まっている。が、あの痛かった時間に、奇妙な充実感があったことを否定するのは、どうも不可能のようである。これは一体どういうわけか。

人生を生きるための切実な動機を見失って久しい。己の内側から噴出して抑え切れない、生への強烈なエネルギーというものを喪失して以来、自分が「人間として生きている」という実感を持てないままにいる。が、久しぶりにこの鋭い腹痛を体験してわかった。私は確かに人間である。自己の存在の輪郭は、己の存在が脅かされ危機的な状況に追い込まれることでかえって鮮明になる。肉体が苦しむとき、苦しんでそのまま死ぬわけになどいかぬから、やはり「生きたい」と必死に願うだろう。あの痛みに襲われた私は、自分の中に眠っていた生きることへのエネルギーが目を覚ました。生きていることへの手応えを回復していたことが、痛みへの充実をもたらしていたのである。あの痛みは、私が人間として生きているということを確かめさせてくれた恩人である。それを失ってしまうのは惜しい。すると恋しいのも自然である。が、やはりたまにでよい。あんな思いはもうこりごりだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?