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早稲田卒ニート71日目〜拠り所よ、いづこに〜

私の手元にバイブルは無い。持っていない人は私に限らずいる。もし私が生きる啓示としてバイブルを持ち、そこに「競馬は身を滅ぼすでしょう」などと書いていてくれたら、私は今ごろ競馬などやってはいないだろうし、私以外の信仰者もまた、競馬になど手は出すまい。が、現代の現実は、競馬をやる者もいればやらない者もいる。無論競馬に限った話ではなく、パチンコだろうと競輪だろうと競艇だろうと、一般に「賭博」と呼ばれる行為に与するかしないかは一切、めいめい次第であるとしか言えない。ギャンブルは良くないこと、どこか公にするのがうしろめたいことの様に思われる。これは、賭け事に対する倫理観の表れである。それでも懲りずに続け、それで身を滅ぼしたら?恐らく人はこれを、「自己責任」と呼ぶに違いない。そしてまさしくこの「自己責任」という言葉使いに、現代人の病理が潜んでいると見なければならない。

もし、バラバラにある個と個にとって、互いを超越して共有され得る価値なり行動の規範なりがあれば、一方にとって有意なことはもう一方にとっても有意となるのが道理だ。仮にそこで、「賭け事に身を投じることで自己の偶然的本質を暴き出す」という行動規範がガッチリ共有されていたなら、みんな揃って競馬場へ熱心に通うことこそ規範に忠実な生き方となり得る。個を超えた価値規範によって、共同体は結束される。

ところが現実はそうではない。そもそも、個を包括する価値も行動規範も存在しない。現代において、超越論的価値基準は失われているのである。それはニーチェの言葉に明らかだ。

おれがお前たちに言ってやる!おれたちが神を殺したのだ—お前たちとおれがだ!おれたちはみな神の殺害者なのだ!(中略)—神だって腐るのだ!神は死んだ!神は死んだままだ!それも、おまえたちが神を殺したのだ!世界がこれまでに所有していた最も神聖なもの最も強力なもの、それがおれたちの刃で血まみれになって死んだのだ

(ニーチェ『悦ばしき知識』)

「神は死んだ」、即ち、超越者は死んだ。神は人間を超越した存在者である。それが失われるということは同時に、個を超えた価値が、超越論的価値が喪失されるということだ。現代人はそういう時代を生きているがゆえに、自分の行為が正しいかどうかの確証を持てず、自分の行為を根拠付けるものも持てず、自分の行為が依拠する条件も持てない。人間は、自分を超越した存在によって与えられていたこれらを、自分を超越した神という存在を失うと同時に失ったのである。すると今度は、失ったこれらを自分で発見せよという要請が時代から送られてくる。「自分で」なのである。生きることの意味も価値も、それらは所与のものではなくなった。言わばオプションである。自分が世界との関わる時のさまざまなあり方の価値や根拠などを自分で設定しなければなれない。このとき、自分の行為の根拠を自分に位置付けるという、根拠の自己再帰的構造がここに立ち上がるのである。こうして「自己責任」を抱えた個が
発生する。そういう個が集合して現代社会は構成されている。

しかし、自分で自分を根拠付ける社会とは、逆に、自分以外の何ものをも根拠にすることができなくなるということでもある。自分を支えてくれる存在が自分以外に無いという状況に立たされること。これはまことに不安であるに違いない。「言い訳」は、人がその不安な状況に立っていることの露呈である。「あの人がこう言ったから」と言う時、人は自分の行為の根拠を他者へ部分的に譲渡している。自分の行為の責任の一部は、自分ではない他者にもあると言うのである。どうやら徹底的に自分を根拠にし切るのは難しいようだ。やはりそれは余りにも不安なことなのである。でも先生は、「やったのは自分だろ」と言ってくる。やはり「自己責任」らしい。

これだ!と決め込んで馬券を買い勝負に出る。そういう時は大抵外れると経験的に知っているが、実際に外れると、例えば騎手のレース運びに注文をつけたり、予想家のレコメンドに文句を言ったりする。こんなふうに、馬券1枚買うのにさえ、その賭けの一切を自分に根拠付けることの難しさがあるのを何度も経験している。本来は全て「自己責任」と言われて仕方ない。



駅でマルチ商法の勧誘を成敗するYouTuberがいる。登録者は41万人もいる。私が中高生の頃も、違法勧誘に乗っちゃだめだという教育が学校でなされたが、この「勧誘」もまた、超越論的価値の喪失に基礎を持つだろう。「これやってごらんよ」という勧誘は、当の本人は価値アリと思ってこそであるが、誘われた方にとっても価値アリかどうかはわからない。その両者を繋ぐ共同的価値基準が存在しないからである。「競馬やりなよ」と誘われても、競馬をやることに意味があるとは思えない人はいるに決まっている。宗教の勧誘というのはインターホン越しにあしらわれるのが常であるが、幸いなことに私の元には来たことが無い。もし来たとしても断るに違いないのだが、それはやはり、向こうにとっての宗教の価値が、私にとっての宗教の価値と一致しないからである。新聞の勧誘なら実際に受けたことがある。大学1年生だったので、押しに負けて取らされてしまった。しかし随分と長い時間玄関先で迷った。なぜならやはり、新聞を取ることの価値が、当方と先方とで等価ではないからである。

別に勉強もそうなのだろうが、「勉強した方がいいよ」と言われたところで勉強をするわけにはいかない。大人はそれを、学生が素直ではないとか不真面目だとか、そんな様な話で片付けるかも知れない。が、事はそうも単純ではない。勉強をすることに対する超越論的価値を既に失って久しいのである。自分にとっての価値を自分で見つけるしかない。

何をして働けばいいのか、一生の仕事を決めるのが難しいのも、それを支える普遍的な根拠がどこにも存在しないからである。私は今そのグラついた足場に立っている。この時なされるのが「決断」であり、結果の跳ね返りもわからぬ所へ自己を投企する「賭け」である。

失われた超越論的価値を探し出すことは、神亡き時代を生きる人間の背負った宿命である。何も最近の話ではない。例えば自然科学が導き出し続けてきたあらゆる法則は、神に取って代わる「普遍性」という名の超越者である。ただし、論理と価値はイコールで結ばれないという注意点を忘れてはならない。





【安田記念】
◎10番ソウルラッシュ(松山弘平)
○4番セリフォス(D.レーン)
○14番シュネルマイスター(ルメール)
▲3番ジャックドール(武豊)
▲11番イルーシブパンサー(岩田望来)
△7番ガイアフォース(西村淳也)
△18番ソングライン(戸崎圭太)


5週連続G1もラスト、しかし難関。と思います。

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