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早稲田卒ニート184日目〜自由平等の隠蔽工作〜

神を棄て、「個人」という自由意志に照らされる主体を出現せしめた近代は、生まれや遺伝といった外的要因から放たれ、自らの才能と努力とによって未来を切り開くメリトクラシーを採用し、外的要因に縛られない自由な主体が、その能力を遺憾無く発揮する。そしてそのため、機会均等という名の下に平等な社会制度が用意されている。これは、「自由・平等」の理念を実現するのに相応しい方策に思えるだろう。例えば生まれた身分によって教育が受けられないといった不平等を解消するため、学校教育はその機会を均等にし、公平平等な社会の設計を目指す。しかし機会が均等に与えられている以上、そこでの勝敗は各個人の自由競争によって決まる。勝つも負けるも個人の責任、即ち「自己責任論」が容認されるのである。

しかし、責任の所在は本当に「内部」に求められるべきなのだろうか。私たちが持ついかなる内的要件も、無数の外的触発を掛け合わせることで作り上げられているはずだ。家庭も学校も習い事も、私たちが遭遇する様々な外的養分を取り入れ吸収することの連続によって、内的自己は形成されている。自己という存在があまりに多くの自己ではないものから成り立っている以上、外的な機会を均等にしたからといって、それだけでそこでの勝敗の原因を全く自己責任に帰結させるのは無理がある。むしろ、それはほとんど欺瞞といって構わないだろう。機械均等という自由平等の大旗を振ることによって、格差と不平等を隠蔽しているに過ぎまい。

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