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早稲田卒ニート185日目〜断絶という幸福な無念〜

人間は共時的にだけでなく、通時的にもまた社会的存在としてある。同時代を生きる他者との社会的連帯をなすのは当然として、さらに世代を超えた連続性まで持っている。そしてその人間を通時的に関係させる端緒となるのが、まさしく死という犠牲である。生者たる我々は、死者から払われた犠牲を礎にして生きている。しかし、ということは、今は生者たる私もまたいずれは死者として、来るべき次世代の生命へ向けた犠牲を払わなければならないということである。貰った分は返す。そういう意味で、「現在から未来」は「過去から現在」とパラレルな関係にある。老いた者には引導を渡し、若い者へ場を譲るという代謝が行わなければ、共同体の健康な維持は危機に瀕するだろう。しかしそのときの死とは、積極的に希望されるものではなく、飽く迄、引き受けなくてはならないものとしてある。すなわち、他者の生を尊重するために、自己の生を諦めるのである。そこでの死とは、次に繋がるという点において、単なる虚無ではない。

私はまだ若い。が、既に中学生の頃には、自分の中に流れているこの「血」は、何としても自分の代で途絶えさせなくてはならないと固く信じていた。この家系に生まれるという不幸は、私で最後にしたい。これ以上不幸な思いをする者はもういなくていい。そこで私の死は、次に生まれてくる生命のためとはならず、むしろ、これからこの家系に生まれてこなくて済む非存在のための死としてある。中学生から浪人生になるまでは、死に対するこの観念が持続していた。

今はどうかというと、そこまで固い信念であるわけではないが、そう変わっているわけでもない。交流のある親戚もまともにいなければ、兄弟もいない。また、いずれ不可避的に来たるべき両親の死にさしたる関心も無い。しかしそれが到来したとき私は、いかなる血縁関係からもほとんど全く疎外される。そのとき本当に、自分の死を一切の孤独の中で迎えなくてはならない覚悟が要求されるだろう。そうして老いぼれて体が動かなくなりでもしたとき、訪れるだろう頽廃的な虚無の中で自らの死を受容するための価値基準はやはり、この「血」を後に遺さないことを達成しようとする幸福な無念だけである。

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