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早稲田卒ニート176日目〜夜の物置きにて〜

最近ようやく、解説できる問題が出てきた。逆にこれまでは、まともに解説できていた問題などろくになかったということである。では何を変えたのかというと、文章を読むようになったということである。読解の授業なのだから当たり前のことだが、これが実は簡単なことではないということにようやく気づかせてもらい、心を改めている。

最近は、とにかくテキストの文章を読む授業が面白くて仕方がない。読むことが答えることに直結する授業というのを、やっと理解できたとは言わない。理解できる足場がようやく建設し始められたというところである。それも、授業研修なんかで他人の授業を受けていると一層よくわかる。文章をよく読み文脈を丹念に辿り抜く授業をする教師は、どんなベテランにだってたったの1人もいやしない。みな、答えるために都合良い情報を探すためにしか本文を捉えていない。

これからは、「文章を読む」ということが、私にとっての絶大な、そして一貫して変わることのないテーマとしてあり続けるだろう。文章を読むことなど誰にでも一応はできると思われるかも知れない。単語と文法を習得し品詞分解ができれば古文はある程度「読める」し、そう多くはない数の句形を覚えれば漢文は大体「読める」と思われる。が、そう甘くはない。シンプルなことほど難しいのである。少なくとも私には、文章を読むという力を、すなわち読解力を、先生の指導なしに付けることは不可能である。残念ながら、英語と数学の受講生は多くても、国語を受ける人は相当なまでに少なかった。しかし、「読む」という力を、自分ひとりの勉強によって容易に付けられるとは思えない。ましてや、参考書や問題集によって読解力が上がることなどあるのだろうか。これもまた、私とは違って極めて優秀な学生にならできるのだろう。が、少なくとも私の様な勉学不良生には少しも不可能なことである。

これまでもどこかで感じてはいた。いや、どこかで、ではない。常にそれを一身に浴びては煩悶を繰り返していたのである。文章を深めるのではなく、文章から離れていってしまう可能性を多分に孕んだ授業であるということを。それに対する葛藤を抱えつつ、無理矢理に、自分が教えられることを教えられるだけ吐き出していた。つい昨日のYouTubeで、宗慶二もまた、同じ様なことを言っていた。「もう喋れることがない。明日の収録に行きたくない」と。

限界は誤魔化せない。今こうして改めて、「とにかく読む」という、至極真っ当なことをやっている。それは、過去への深い反省からでもあるが、それにしても反省するというのはいいことだとつくづく思う。そしてこの経験を、小学生の授業を通してできたことが何より有り難いと思う。


語彙力こそ全てである。行きすぎた主張かも知れない。が、語彙力というのは、単語の意味を知っているとかいうことではない。私ども人間が言語を通じてしか思考できない以上、語彙の力量は思考の力量を左右する。類義語も対義語も、近代を表すキーワードも、その意味や訳を答えられればそれでよいのではない。ひとつの言葉の意味を、その歴史的文脈において理解することである。例えば「個人」という概念を、「ひとりの人」とかいう意味でしか理解できないのでは、それは何の勉強にもならないし、そもそも言葉を勉強したことにはならない。言葉とは単なる意味ではない。世界を分節化するひとつの概念である。私たちが言葉を学ぶことの意味のひとつは、世界に対する概念的思考を展開するためでもあるのである。


みな読解に苦戦する。そのとき、うまい方法があると思われたらそれは困ったものだ。もし高校生になってもなおそう思うことがあるとしたらそれは、それまでに教わってきたことに問題の原因がある。どうせ文章をよく読まず、教わったことといえば問題に対して上手に答える方法くらいなものなのである。なぜそうなるのかというと、高校入試の文章は簡単で、その簡単な文章から作られる問題も簡単であるから、それに答えるのも簡単であるという、そんな大人の独りよがりから来る傲慢である。小学生の授業を本気でやったからこそわかったが、簡単に見える問題が簡単であるわけではない。簡単だと思ってみくびるのは、文章を甘くみた大人の読解不足のあらわれでしかない。 私は、今このことに気づけてよかったと思う。もし気づいていなかったら、この先の教師人生はこれまでと同様の、簡単に見えるものを軽んずるという傲慢なものになっていただろうと思う。

反省できるというのは、なんとも貴重な経験である。年を取るほど、深く反省を噛み締めることは難しくなってくるだろう。ベテランには変なプライドがあったりする。そのとき、そのプライドの殻で自分を守る人と、正直に反省する姿を見せる人と、どちらが若手から慕われる上司であるかということは、考えてもらいたいと思う。自分をよく見せたがる人は、案外容易に見透かされるものだ。

そういえば幼少の頃は祖父に、「そこで反省してろ」と言われて、仰向けの状態で両足を持って引きずられて運ばれ、物置きによく閉じ込められたっけな。反省といえば、私にとっては物置きでさせられるものだった。あの頃は嫌々でかなりの抵抗をしたが、今となっては自ら進んで反省する様になった。尤も、物置きに入るわけではない。

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