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早稲田卒ニート174日目〜make a long story short〜

「初めが肝心」と教わった。何事も、それを始める最初の取り掛かりこそが重要である。

「終わりよければ全てよし」と教わった。たとえ最初が駄目だったとしても、終わりがよければしめたもの。結果オーライである。

少年ながらに、この2種の教訓を食らったときのアンビバレンスに煩悶したことだ。初めが大事か終わりが大事か、一体どっちだというのか。


「足踏み」に始まる射法八節という段階の中で、その始まりから技を積み上げて引いてきたとしても、最後の「離れ」で全てが崩れ落ちてしまう。弓道ではよくあることだ。どれだけ美しく引いてきたとしても、終わりの拙劣は、その寸前までの過程の一切をも無に帰してしまいかねない。

「正射必中」という弓道の心を実現すべくして弓道家は稽古に励むが、「正しい射は必ず中る」というこの言葉は、「中らなければその射は正しいとは言えない」という意味にもなり得る。すると、その射が正しいかどうかの判定を下すのが的中という結果である以上やはり、終わりが価値を持っている様にも思われる。が、中てるために引いた射は弓道では評価されない。射法という過程が、的中という結果に従属してはならぬということだろう。しかしだとすると、的中は大事であるといいつつも、「終わりよければ全てよし」とはならない。それでもなお、ただ美しく引ければよいのでもない。射法という手段が自己目的化してしまうからである。


初めが大事か終わりが大事かではない。終わりが大事なのである。それに気づくと今度は、それと対応する初めの大事さもわかる。そして、その初めと終わりを繋ぐ間の展開の重要性もわかる。そうして結果的に、全体性の意味を知るのである。射法八節も、その8つの全てが因果関係によって結ばれている。関係によって結ばれている以上、それらを切り離して部分に解体し、その部分だけを見てその価値を検討することはできない。確かに部分の総和が全体を作り上げるが、全体が部分の総和と一致するわけではない。全体とは常に、単なる部分の総和以上の何ものかであり得るのである。よって、「初めが大事か終わりが大事か」という問いそれ自体を訂正する必要があったというわけである。


文章の読解にも、概ね同じ様なことが言えると思う。結論の重要に気づくことで、それに対応する冒頭の重要にも気づき、そして、冒頭から出発し結論に到達するまでの過程の重要もまた思い知る。この過程にこそ、筆者の「論理」があるのである。それを読まずして筆者の「主張」ばかりを取り出そうとする、つまり「結果」にのみ重きを置くのは稚拙な読みである。しかし今、到達点にばかり気を取られ、結果のみを手早く享受することに価値が見出されている様である。これは読解に限らない。社会のあらゆるところに見られるだろう。

この頃、ずいぶんと興味深く見させてもらっている。大衆消費社会を生きる私たちモダニストは、生産された商品や、提供される情報といった「結果」だけを受け取り、しかもそれをなるべく速やかに獲得しようと、知らず知らずのうちに生き急いでいる。レジの会計で小銭取り出す前の客を待つ僅か数十秒の間にも貧乏ゆすりをしたり、YouTubeのたった10秒前後の広告さえも終わるのを待っていられないほどである。そんなせっかちな社会にあって、これは素晴らしいチャンネルだと思う。

どこか知らない遠くの場所で見知らぬ誰かによって生産された物を買っているかの様な感覚でいる私たちは、生産と消費が親密な結びつきにあるという実感を持つことが難しい。が、こういう動画によって、私たちが手にする様々な物が出来上がるまでには様々な過程があり、そこに関わる人がいるという当たり前の現実を知る。消費は一瞬だが、その一瞬のための生産にはあまりにも重厚な時間がかかり、それに人生をかけている人もいる。私たちは、そこに捧げられた人生の時間によって生産された物を、一瞬のうちに消費しているのである。このことの恩恵に与り、そして生産と消費が確かな現実として結びついているということを気づかせてくれるキッカケになり得るのが、そのプロセスを知るという経験である。


もうとっくに普及したYouTube ショートとはまさしく、結果までの過程を短縮化した要約的発想から生まれる。尤も、大事なところの寸前で動画を切り上げることで本編への誘導を促す広告的戦略に用いられることも多いが、それが普及した理由は、結果への到達を手短にしたがる消費者的欲求を基礎にすると言ってよいだろう。

長い動画を最後まで見ていられない人がいるのと同じ様に、長い文章を読み通すのが難しいという人がいる。論理というプロセスを読むことができず、主張という結果を読み急ぐ。それを変えるために必要なことは何か。視野の浅い人は、参考書や問題集の取り組みによって変えようとしか考えられない。実際、世の中のほとんどはそんなアドバイスだろう。私はいつだったか、また誰にだったか、「普段から少し歩くスピードを落とした方がいいよ」と言ったのを、たった今ふと思い出した。要するに、勉強というのは、自分という存在の全体性を根本から変えていこうとする姿勢が肝心だということである。

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