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早稲田卒ニート167日目〜秋風の誘い〜

この頃は夜になると外が随分と涼しくて空気が心地よい。秋だ。秋の風のにおいは、私の鼻腔を刺激して脳裏にさまざまな記憶を生起する。その度に目を細めなければならなくなりつつも、なぜか口元が僅かに緩んでもしまう。

どうせ振り返ったところで嘆息しか出てこない過去である。本当に良かったと思えるのは、浪人の1年間と早稲田で過ごした4年間だけであって、幼稚園も小学校も中学校も高校受験も就職も、「これでよかった」と信じられるものは何も無い。

そもそもどこから後悔が始まったのかといえば、生まれてきたことそれ自体を悔やんだのである。こんな家庭に生まれた自分と私を生んだ両親、育てた祖父母、そして親類縁者一同への、ほとんど殺意に近い恨みを腹の底で煮沸させながら幼少期を生きた。「自立」ということが人生のテーマとして立ち上がったのはここからである。そして、やはり、否定から出発した自己形成であるがゆえに卑屈な人格に陥ったこともあったが、それと共に、自分を否定するからこそ生まれる重大な問いが、私の背骨として全身を貫くことになる。即ち、「如何にして自分の人生を肯定することができるか」と。

この問いには正しい結論が無いということが重要である。何が正しいか、ではない。そもそも科学的客観的に正しい結論を出したいとも思わなければ、科学なんかで正解が導かれてたまるもんかとも思う。そんなことより、私が自らの意志と肉体と思考によって何を正しいと信じるかが重要なのである。やがてこの問いそのものが、生きることそれ自体と一致する。

しかし今までの後悔のどこかで、もし運命があちらへ転んでいたら。反実仮想に流されてしまうことが昔は何度もあった。が、やがて教育学部へ進むことを決定づけた最初の契機も生まれた家庭に対する後悔にあるし、自分の人生の肯定を求めたことが、哲学をする最初の動機にもなった。

全体というのは確かに部分の総和であるが、歴史は部分どうしの単なる因果的関係ではない。私の歴史のどんな些細な部分でさえ、どんな経験とも等置にはなり得ず、たとえ性格の同一な経験であってもそれを代入することもできない。それが、歴史の動かし難い「姿」である。

他者への敬意を失っていた時代が相当なまでに長い。それは、私が、自分が人間として生きているということへの確かな自覚がなかったからであると気づいた。私が確かに人間として生きているならば、私以外もまた確かに全宇宙史にたった一人の人間として生きている。各人が各人の具体的で一回的な「歴史」を作り上げる過程を生きているならば、私を含めた皆が未完成である以上、それを侮ることは容易なことではないのである。人間に対する敬意を持つならば、その人間として生きる他者をそう簡単に軽んずるわけにはいくまい。

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