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早稲田卒ニート172日目〜救済としての物語〜

棺に納まった祖父の遺体が火葬場で焼かれた後、そこにあるのは骨と灰のみであった。そのとき、「これが死ぬということか」と、死が現実のものとして体感された。一切の身体を喪失し、いかなる現実からも離脱するということ。それが死であるならば、翻って、常にある特定の状況に依存した身体を持つということが生きるということであるということにも、強い自覚が芽生える道理である。

時折、私どもは悲惨な体験をする。現実はかくも過酷であるかと悲しみに苛まれるときのその現実を、「混沌」と言い換えても構わない。その混沌を混沌のままで生きることが叶わない以上、そこに「秩序」を立ち上げる必要が不可避的に出てくる。現実が混沌であるならば秩序は現実ではないというのは、当たり前のことだ。秩序はフィクションである。しかし、その虚構が虚構ゆえに無意味だということにはなるまい。むしろ、混沌の現実に見出される虚構こそが、私ども人間にとっての救済たり得るのである。例えば、物語。

ノンフィクション作家である柳田邦男の次男は、自殺を図った後、11日間の脳死を経て亡くなる。実の息子の死に様がこうである。私は沈黙するしかない。

脳死になった次男の臓器は移植のために提供されることになり、その腎臓は亡くなった日の夜、ジェット機で九州へ運ばれる。柳田自身は飛んでゆくそのジェット機を実際に見たわけではないが、その姿を想像して、「ああ、洋次郎の生命は間違いなく引き継がれたのだと実感した」と書いた。

これは全くフィクションであるに違いない。が、このフィクションがフィクションであるがゆえに無駄なものかといえば、決してそんなはずがあるまい。これは、悲痛な現実に直面した自分を救済するための秩序である。すなわち、「次男の死を、受け継がれる生として読み換える」という「物語」なのである。

天国に行けるか、それとも地獄に落ちるか。いわゆる「あの世」を設定するのもまた、単なる虚無でしかない死を別世界における新たな生へと転換するという物語としての性格を持つだろう。「地獄に落ちるぞ」という恐ろしい脅しは、脅しに聞こえて実は救済だったのである。死んでも次がある、というわけだ。人間の死をどう受け止めるかにあたって、臓器移植という近代医学とは違った人間の「知恵」を、そこに感じずにはいられない。

学部4年時に授業は一切オンラインへと切り替わり、通ったのは実質3年間となる。そのコロナ期を境として、私の人生はどこか狂いが生じた。これは別に悲惨でも何でもないが、だとしても、私も私なりの、救済としての物語を必要としているに違いない。あとはそれをどう描くか、である。

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