見出し画像

早稲田卒ニート127日目〜誤読の経験〜

怠け者の分際で言えたものではないが、熱心に読書をする高校生は残念なくらい少なかった。尤も、授業だ部活だ課題だ試験だと、進学校の連中は可哀想なくらい忙しそうで、読書を愉しむ余裕など無さそうだった。そもそも、本を読むなんて習慣を持ってすらいないことが多い。

別に教科書でも問題集でも入試問題でも、面白い文章を載せてくれている。折角なら読書の一部としてそれを読んでもらいたいし、その方が学びになる。解くためだけに読んだ文章は、その内容なんか記憶に残っちゃいない。

そのせいで、誤読の経験が少ないのかも知れない。読解といってもやっていることといえば、使えそうな根拠を拾い集めては選択肢と比較し、ひとつずつ削除をしていき、やがて残った最もらしいものを選ぶ。それらしい根拠からそれらしい答えを選ぶのだから、当たることもあれば外れることもある。しかしこれでは、読むというよりもほとんど「賭け」である。すると、その「賭け」が的中すればあとは自分の読みなど省みるはずもなく、外したところで修正するのは自分の読みそのものではなく、自分が気づかなかった選択肢の間違い箇所、あるいは拾えなかった根拠の在り処である。このとき、内容でというよりも「場所」の対応で考えていないか。

意味ある誤読の経験は、そう容易にはさせてくれないのかも知れない。解答までのプロセスとかいうヤツを解説集で読んでみても、それで自分の読解力が高まっている手応えは無いし、次の試験で活かせる実感も無い。そうして結局、読解はその時その場だけの手短かな情報処理のようになる。とにかく速くやろうとすると十分な読みができない。同時に、十分な誤読もできない。しばらくの間こうだと思い込んでいたものが、あるとき一気に覆ることがある。そのときにようやく、深い気づきがもたらされる。あるいは、ずっと理解できずに頭の中で抱えていたモヤが、あるときスカッと晴れたりする瞬間がある。それは、自分の限界が一歩拡張する瞬間である。その一瞬のためだけに長い時間がかかる。しかし、常に何かに追われて忙しない高校生は、そのための十分な時間が取れていないように思う。同じ文章を繰り返し読むなどしないで、どんどん問題を新しくして解く。そのぶんだけ学びがなければ、たくさん解いたってダメだ。「解けた!」というより、「読めた!」と思える瞬間を増やさないといけない。

思想ばかりが先走ったあの2年間も、今振り返ると何だか「青春」だったような気がしてきている。思い出すのさえ恥ずかしくてたまらなくなる。教育や授業を「誤読」していたことを反省している。大学時代から数えて6年もの間、私は「誤読」していたのである。しかし、これで改めて教育を理解するための道につけるかも知れないとしたら、これは不可欠な「誤読」であったに違いない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?