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演出新人訓練 振り返りレポート②(それでもかわらだ)

どらま館制作部の浜田です。この記事では、内田倭史・それでもかわらだ・浜田誠太郎で2022年10月~2023年1月に開催した企画「演出新人訓練」の共同主催者の振り返りレポートをお届けします。二つ目はそれでもかわらださんによるレポートです。


演出の技

このワークショップで最も面白かった点は、悲劇のような雰囲気も持つ戯曲『かもめ』が、完全な喜劇へと印象を変えた点である。実際にスタニスラフスキーのつけた演出をたちあげていくことによって、笑いどころや、潜んでいた対比関係が明確になったのである。
この文章では、戯曲に潜んだ要素を説明するため、実際にスタニスラフスキーが使った「技」について、まとめたい。

間の秒数の指定

スタニスラフスキーは、細かく間の秒数を指定していた。おおまかに、15秒、10秒、5秒であることが多かった。
そのうち、実際に秒数をはかって実験してみた箇所の例を挙げる。

第1幕
(59)トレープレフが急いで去ってしまってから五乃至十秒の間。アルカーヂナは肩をすぼめ立ち上がり、トレープレフの去った方を柄付き眼鏡で見る。他の者はみんな地面に眼を伏せたまま座っている。彼らはみんな、アルカーヂナを除いては、観客に背を向けて座っている……(以下略)

演出番号59では、むしゃくしゃしたトレープレフが去ってしまった後に、間が設定されている。実際にこの秒数で演じてみると、共感性羞恥のような感覚が生まれた。これは個人の所感だが、共感性羞恥を感じる間は、ちょうどいいと感じるタイミングからかすかにずれているように思う。

(93)十五秒の間。ドールンは座ったまま動かない。歌の一節を口ずさむ。

演出番号93は、トレープレフの舞台を馬鹿にした観衆たちが、ドールンをのぞいてみんなたちさってしまったシーンである。この間は、かなりちょうどいいと感じるタイミングだった。ここに15秒間の間があることで、場がリセットされ、しんみりした空気が流れた。

ここまで細かな秒数の指定があると、実際には「これ位の長さ」くらいのアバウトな印象を伝えたかったのではないか、とも思えてくる。しかし私は、実際にこの秒数が指定されたのではないかと感じた。それは、実際にその間で演じてみた際に、かなりちょうどいいタイミングであることがほとんどだったためである。文字面でみると相当長く見える間が、実際演じてみるとちょうどよかったのは、とても不思議な感覚だった。まるでスタニスラフスキーの時代の美的感覚が、そこに現前したかのようだった。

ここで、篠崎光正氏の「篠崎光正演技術」より、間についての考え方をお借りしたい。彼によると、間には三種類あるらしい。①生理的間 ②物理的間 ③心理的間 である。うち、①生理的間は、動物的で、ずっと舞台に集中をとぎらさないような間のことである。人間は生きているとき必ず何か目的を持って行動するものだが、その目的に向かって常に動いているような状態にあるときの間である。②物理的間は、何かの行為の途中でどうしても発生する間のこと、③心理的間は、何かを考えこんでしまっているような間のことである。
彼はこの本の中で、演劇で使うべきなのは①の生理的間であり、③のような心理的間は舞台の空気を重くしてしまう、と述べている。

しかし、この観点を利用してスタニスラフスキーによる演出を分析してみた際、不思議な事実が浮かび上がる。それは、スタニスラフスキーによる演出では、物理的間・心理的間のほうを多用していて、むしろ強調しているとまで言える点である。
例えば、先ほど例に挙げた第1幕(59)は、完全に「心理的間」である。発生すると舞台の空気を重くする心理的間を、明確な秒数で区切りつつも、意図的に強調している。

実のところ、私は心理的間が多すぎて空気が重い演劇というのは観てられない。しかし、スタニスラフスキーによる演出ならば何の苦労もなく観られるように感じた。それは、心理的間を心理的間として、意図的に見せるテクニックや、それを見てられる限界ぎりぎりのタイミングをわかっていたからなのではないだろうか。優れたコメディの演出は数秒単位で細かく指定があるという噂も、一連の考察から、事実なのではないかと思えてくる。

立ち位置―観客席に背を向ける

この演出ノートでは、「観客席に背を向ける」という記述が散見された。スタニスラフスキーは、ひとつのパターンとして、観客席に背を向けるといった行為を指示していたように思われる。
また、背を向けている人物が舞台手前側にいることが多かった。
下に例を挙げる。

第1幕
(11)トレープレフは、ほれぼれと舞台を眺めながら、(背を観客に向けて)ベンチの上に立つ。それから身体をかがめて、自分の煙草に火をつけるためにソーリンの煙草を借りる。

(59)(略)――アルカーヂナは肩をすぼめてたちあがり、トレープレフの去ったほうを柄付き眼鏡で見る。ほかのものはみんな地面に目を伏せたまま座っている。彼らはみんな、アルカーヂナをのぞいては、観客に背を向けて座っている。アルカーヂナは今や舞台の中心人物になっており、彼女が彼らに話しかける時その顔は自然観客席のほうを向く

第4幕
(59)アルカーヂナは鏡を見るのをやめて、観客に背を向け、二人を見守る。舞台奥よりにいる人々の間では会話が交わされている。

以上からわかるように、見る側になっている人間・そして、観客に感情移入させたい人間が、舞台手前・顔の見えない方向に配置されるようになっている。
また、第1幕(59)と第4幕(59)の対比は少し興味深い。第1幕(59)では、完全に舞台の主役であり「観られる側」だったアルカーヂナが、第4幕(59)では、「観る側」へと変わっている。
内容としても、第1幕(59)は、アルカーヂナがトレープレフの芝居を観て馬鹿にするようなシーン、第4幕(59)は、トレープレフとトリゴーリンの仲をとりもつようなシーンである。自分ばかり可愛くて自分が一番でなければ気が済まなかったアルカーヂナが、性格は変わらないにせよ、変化を見せているように見える。

無関係な反応

スタニスラフスキーは、この戯曲を喜劇として描くために、「無関係な反応」を利用しているように思えた。

第1幕
(12)トレープレフはベンチから飛び降りる。ソーリンはまた唸り声をあげてベンチの板に掴まる。トレープレフはソーリンに煙草を返し、伯父のネクタイを直してやる。

(23)トレープレフはベンチから飛び降りる。ソーリンがやっともとの姿勢に戻る間もなく、トレープレフはいきなり彼に飛びつき、伯父を抱きしめる。ソーリンの帽子が頭からおちる。ソーリンは何が何だかわからないままにベンチから立ち上がり、自分の髪の毛を撫でつけ、それから杖で帽子をひっかけて拾い上げようとする。一方トレープレフは走っていって橋の上でニーナを迎える。

以上の例では、お母さんの話やニーナの来訪などによって、感情を高ぶらせたトレープレフが、一人で激しく様々な動作をしている。一方で、その感情に巻き込まれていないソーリンが、その動作のみに巻き込まれ、影響を受けて反応している。
ここでのポイントは、ソーリンはトレープレフの感情とは何も関係がないところで反応しているという点である。つまり、トレープレフは話しているうちに自分の世界に入り、子どものように遊動ベンチを揺らし、ソーリンはその様子を傍観しながら、激しい物理的な動きのみに巻き込まれ、振り回されているのだ。

ソーリンのほうがまともに聞いていれば、トレープレフの話は深刻にもなりうる。しかし、ソーリンがこのような影響の受け方をすることで、少し滑稽な印象が加わるのである。
からかったり、直接的に皮肉ったりしていないのに、トレープレフが滑稽に見える点が、テクニカルに感じる。

人物のイリ・ハケ

また、イリ・ハケの演出に特徴のあるシーンもあった。

第1幕(演出ノート)
(1)これらの言葉を交わしながら二人は舞台を歩き切ってもと来たほうから蔭へ去る。十秒の間。この間、舞台の上の鐘の音が高くなる。そしてヤーコフが誰かと話しているのが聞こえてくる。相手は、舞台の様子を見に来たトレープレフである。十秒の間のあと、メドヴェージェンコとマーシャが前のように散歩しながら戻ってくる。二人は仮設舞台の上の物音と話し声を耳にしてその方をちょっと見る。それから、また歩き始める。

(戯曲)
二人は腰を下ろす(この指示はスタニスラフスキーによって消されている)
マーシャ  問題はお金のことじゃないのよ。貧乏な人だって幸福になれますわ。
メドヴェージェンコ  理論的にはそうです。でも現実は、こうなんです――わたしと母親、それに二人の妹と、小さな弟、それなのに月給はたった二十三ルーブル。飲み食いはしなければなりますまい? お茶や砂糖もいるでしょう? 煙草もいるでしょう? まったくきりきり舞いですよ。(1)
マーシャ  (仮設舞台のほうを振り返って)もうじき芝居が始まるわ。
メドヴェージェンコ  ええ、ザレーチヤがやるのです――(以下略)

ここでは、戯曲にのっているト書きが、スタニスラフスキーによって消されている。戯曲そのままの指示だと、マーシャは、メドヴェージェンコと座って話している最中に、仮設舞台の話題に切り替える。それが演出ノートでは、話しながらハケることになっているのである。こののちに、十秒の間が指示され、環境音と、ヤーコフとトレープレフの会話が聞こえてくる。
戯曲の指示のままこの場面を演じると、マーシャは意図的にメドヴェージェンコを無視し、仮設舞台に注目をする、という流れになる。
無視という強さがある以上、このシーンでマーシャとメドヴェージェンコは目立つ。しかし、無視しているタイミングをハケに合わせてしまい、舞台の主役を一時的にヤーコフとトレープレフに譲ることで、次の展開への誘導をしているのである。これは、戯曲の指示と演出ノートの指示のズレから読み取れた技であった。

スタニスラフスキーは、人物のイリハケについて、このほかにも特徴的な演出をいくつかしている。たとえば、出てくる人間を増やすことで、起こること、情報量が多くなり、時間の流れを早く見せる、などである。全体に、イリハケをかなり積極的に用いていると感じた。

最後に

このほかにも、音楽の使い方、視線誘導の仕方、舞台装置の設置の仕方など、様々な「技」が見られた。今回は、その中で私が興味深かったものについて限定し、さらなる考察を進める形で文章をまとめた。
このワークショップでは、スタニスラフスキーというひとりの演出家の演出ノートを読み解いた。しかし逆説的に、演出のスタンダードのようなものを探れたのではないかと感じている。自身の中に存在するスタンダードを、スタニスラフスキーの演出と比較することで、整頓することができた。重なる部分は意図を理解し、重ならない部分は学びとして吸収した。自分がこれまで演出として何をやってきたのか・そして他には何ができるのか、といったことを探れた企画だったと感じている。

それでもかわらだ



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