いつかの日記(16) (花と絵画)

日記のようなもの、つづき。

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最近、部屋に花を飾るようになった。20年近く一人暮らしをしていて、ほぼ初めてだと思う。
きっかけは、絵を飾ったことだ。絵画をプレゼントしてもらい、賃貸マンションの小さな部屋のどこにどう飾るか、数ヶ月悩んで(途中あきらめかけてちょっと放置した…)、なんとか定位置が決まった。そうしたら、その下に花も飾りたくなった。

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花を迎え入れると、部屋の中に「生き物」が加わった、と感じる。切り花は知らぬ間に勝手に動き、水を吸い上げ、伸び、色を変化させ、頭をもたげ、はたりと枯れる。
元々、一人暮らしの部屋というのはひしめく惰性とわずかな意図の集合である。私が私を許容して放置した、あらゆるものたちの合間に、ささやかな狙いを持って置いたものが少しだけある。そういう状態のところへ、惰性とも意図とも縁のない別の「生き物」による、大らかで気まぐれな動き(動きそのものを目の当たりにすることはなく、気づいたら動いているものなので、動きの「予兆」とか「痕」といった方がいいかもしれない)が加わり、部屋の片隅の空気をかき乱し続けていることが新鮮だ。

毎朝花瓶の水を替えるという日課ができた。朝、昨日より開いた花の顔をのぞき、昨日より萎れた葉を取り除き、こうやって日々見ているのは、生き物が死んでいく様である。花は、生きていくことは死に向かっていくことであることを明確に教える。

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絵の方はというと、あなたが持っていていいよと誕生日に母が贈ってくれたもの。絵描きだった父の、悪友だった絵描きの作品。その人に最後に会ったのはたぶん小学生のとき。
父よりもちゃんと売れていて、わりとろくでもない大人で、しかし子供心にもおそるおそる近づいてみたくなるような引力のある、あやういおっさんだった。父も彼も同じ病気で死んでしまい、ほとんどのことを忘れるくらいの時が経ったが、作品はしれっと、堂々と、残っている。何度見てもいい絵である。

ずっとそこにとどまっている絵画も、一瞬もとどまらずそこで枯れていく花も、死は世界を止めないことを伝えてくる。見ると安らぐ。

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つづく。

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