人生躁鬱?なのかもしれない

まえおき

タイトル、そんなわけないだろと思うかもしれないが、私にとっては人生大体躁鬱みたいに激しい波のあるものだという認識だし、まだ若くして精神疾患にかかった私にとっては精神疾患にかかっている自分というものがデフォである。
今日は大学の履修登録の締め切り日。最終調整に入らなければならないし、そもそも夜なので風呂に入らなければならないのだが、どっちもやる気が起きないままただただスマホ片手に寝っ転がってゴロゴロしていたところ、急に「そうだ、ブログ書こう」と思って思い付きで気の向くままに駄文をパソコンに打ち込んでいる。

風呂の話

そう、精神病になって何よりも困ったことは風呂に入れないことなのだ。基本的に何に対してのやる気もそがれるわけだが、風呂という通常の人間からすると快楽と化す行為が苦痛なのである。そもそも何に対してのやる気も起きないことからこうなるというのもあるのだが、風呂に入ると考え込んでしまい、所詮精神病患者の考える考え事なんて暗いことしかないわけで、結果風呂で病んでしまうということ、一般家庭の風呂は狭く閉鎖的なので閉所恐怖症のような症状に悩まされながら入浴しなければならないことが原因にあげられる。

直近を振り返って

ついこの間書いた記事で私は統合失調症で昨年の秋学期に休学したことをお伝えした。休学直前は道端で座り込んだきり立てなくなるほどの鬱状態で、症状はひどかったのだが、休学をしたことで表面上はとても安定した。むしろ、月何回も北海道に撮影旅行に行けるほどの安定っぷりを見せた。
しかし、今期はさすがに復学するということで、最近鬱状態になることがまた出はじめ、くらい考え事をすることが増えた。
今思うと、休学中は安定ではなくて躁と呼ばれるハイになっている状態だったのかもしれない。自分の支払い能力を超える頻度で撮影旅行に出向いていたし、クレジットカードが気づいたら手元に5枚ほどある状態だったし、そんなに作ったクレジットカードが限度額に達していたこともあったし、今思えば無駄な契約とか買い物も多かったなと反省している。
かえって休学直前や今みたいな鬱状態も何もやる気が起きないほど落ち込むといった感じである。今日も昼間はやる気に満ち溢れていて、桜の撮影とか買い物に出向いたのだが、今になって鬱になっている。しかも買い物も無駄だったのではという反省が頭をよぎる。

人生躁鬱?

今思えば私の人生そのものが躁鬱のようなものだったのかもしれない。小学生のころから感情の起伏が激しかったし、昼間ハイになって自分の中で失言だと思うような発言をしまくり、夜になって寝床でうじうじ一人反省会をしてなかなか寝付けず、翌朝寝坊するといった状態だったりした。小学生の失言なんてかわいいものだが、当時の私にとっては友達が離れていってしまうのではという重大な問題だったのである。
それに、ADHDだったというのもあるのかもしれないのだが、特性的に注意力散漫でミスをすることが多く、高校時代の部活やアルバイトなどでも、ここは結構苦労した。
普通に生きれる人がうらやましく、自分の中でそうなるような努力をしてきたつもりだが、結局一時的にハイになったところでまた鬱になるので長続きはしないし、そもそもそんな一時的なハイで得られる成果なんてたかが知れていて、普通に生きられる人には負けてしまう。
もはやこの記事も思い付きでハイになって書いているようなものであり、現代文が苦手なことも相まって終着地点がどこか見失っているようなめちゃくちゃな記事になってしまった。

躁鬱病というのは遺伝的になるものである可能性が指摘されているらしいが、精神病の当事者になった今、なんだかそれが分かるかもしれない。幼いころから悩まされていた感情の起伏の激しさ。これはまさに躁鬱の症状なのではないか。今度から人格について聞かれたとき、躁鬱と答えようかな。というのは冗談だが、私は生まれた時から精神病の前兆のようなものがあったんだろう。人はこれを発達障害と呼ぶのだが。

かなり質の低い駄文になってしまったが、文字数も1600くらいになってきたので、そろそろおいとましようと思う。こんな精神病患者の頭のおかしい文章なんか読んでも疲れるだけだと思うので、今回は試験的私が趣味で撮った鉄道情景の写真を最後に張り付けて場を中和させようと思う。続くかはわからないが。
今回の写真は石北本線の愛山駅。この駅自体は今年の3月のダイヤ改正で廃止され、現在はホームの先端で撮ったこのような写真は撮れなくなっているうえ、写っているキハ40は同改正で石北線の運用からは撤退している。
にわかオタク全開で失礼しました(ボソッ…

石北線 愛山駅 2023/4

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