2024年 10/7(月) 朝、父が亡くなった。享年87歳。
約10日前の9/25までは 山谷はあれど1日2食食べれていたが、9/26になって頑なに口を開けず食べなくった。かなり重い認知症だったが、最後はきっと死ぬ時期を選んでくれたんだろうと思う。
母が亡くなったときは、それはそれは3年前の7/27で夏の暑い日だったから。それに9/30が母の誕生日だったからなのかもしれない。
最後は、かねてからの「口から食べれなくなったら終わり」という父の意思を尊重して、点滴はせず、救急搬送はせず施設(特老)でお見送りとした。
とはいえ、9/30(月)の施設の夏祭りに、たこ焼きを1度食べてニコニコしていたと連絡が入ったのでそれからまた回復するかも。。とも思っていた。今までも悪くなっては少しよくなり。。と繰り返していたから。
本当にこれはダメかもと思ったのは 10/02だったか、10/03だったか。
熱があり、下顎呼吸を繰り返し、目は開けるものの意識は虚ろで、看護師さんの血圧計まくのもいやいやするという話も踏まえて。それでも 10/04(金)には熱が下がり楽になったようにも見えたので、起き上がって水をくれと言ってくるような気もしていた。
10/06(日)、目を見開いて手を動かし肩で息をし荒そうだったが、手を握ってじっとしていると落ち着き出した。
この日は呼びかけるとかすかにうなづいたり瞼で応答したりしていた。おそらく混濁しながらも意識はあったんだろうと思う。
何か話しかけたいと思ったが、どうにも言葉が出ない。父も何か言いたそうだった。何度も手を握る。
ふと、死に行く人は残った人々を心配するという話を思い出して、
「妹と仲良くやるで心配しないでね」と少し大きめの声で言ったら、瞬きをしてうなづいたようにみえた。
返事として、いつもの「みんな元気ならそれでいい」と言っているようにもみえた。
帰る際、「明日も同じ時間に来るでね」といったら、名残り惜しそうにもみえた。
いずれも自分の気のせいなのかもしれないけど。
10/07(月)朝、施設の介護士さんより電話。血圧が測れなくなった、息も弱くなってきた、そろそろかもと連絡。うちの姉猫が膝にのって「落ち着いて」と言っているように感じた。
数分たったあと、妹猫が今まで聞いたことがない声(絶叫声)で泣く。
驚いていると、再び電話が。
施設に駆けつけて臨終に立ち会った。
こうして自分は喪主になった。
最後の最後まで、父とは、対話らしい対話はできなかった。
思い起こすと3年。
父がフレイルになってからいろいろあった。ほとんど毎週何かしらあったと思う。ここ1週間、書いていた記録をみたり、妹のLineのやりとりをみたり。
これでよかったのか、これがよかったのか。
全体として、自分の身としては仕事しながらの介護をなんとかしてきた。また、母のときに比べればちゃんと看取りができた気がする。
ただ。
「大病院で検査しますか(でも検査してもわからないことがあります)」「救急搬送しますか」
「点滴しますか」
「気が変わることもよくあります、変わったらすぐに言ってください」
「点滴しなくてもよいですか」
「口から食べれなくなったら終わり」、「自然に息を引き取りたい、亡くなりたい」と、そんな人として人間らしい知性・意思を貫くのも大変だった。
「あなたがたに何がわかる」
自分、少し意地になっていたかもしれない。
そして、父自身が最後の刻を幸せに過ごせたかというと、疑問が残る。
これでよかったのか、これがよかったのか。
自問自答の日々は一生続くのかもしれない。