母の死に際して

母が亡くなったのが今年(2021年)7月27日、早いものでもう3週間も経つ。深夜午前2時1分のことだった。
直接の死因は尿路感染症だったが、眼疾、脚の衰え、そして認知の衰えも併発していたので、老衰といっていいだろう。
最後は安らかな顔だった。

思い起こせば、母は、感情がまず先にくる人で、道理よりその折々の気持ちが優先され、幼い頃よく叩かれた。理屈が先にくる自分とはどうしても話が合わず、初対面の人となかなか打ち解けることはなく、近所の人とも仲がよかったと思えばふとしたことをきっかけで以後決して許すことはない、激情の人だった。

何より怖かった。
上京して千葉の安下宿に住むことになってから、もう怯えることもない、なんとも言えない開放感に浸ったことを憶えている。

そんな母だが、妹が結婚して家を出て50、60歳を超えた頃から、割と温和になっていったと思う。父と二人暮らし、たまに妹夫婦と孫、ごくたまに自分と妻がきて、極々たまに親戚と親交するくらい、本当に小宇宙の世界に住んでいた。

2年前のある秋の日のこと。
突然、口から泡をぶくぶくとだし、父がかかりつけの医者と相談して、救急車を呼んだとき、そのときから彼女の小宇宙は終わった。
それから2年弱。
あるときは大学病院、あるときは近所の病院、一旦住み慣れた自分の家に戻って 1年過ごせたものの、再び大学病院、また家、最後は近所の病院と転々とした日々だった。

医療関係者ならびにケアマネさん含め介護関係者は、よくやってくれた。
前述したように、母は初対面の人に打ち解けることはなかったからやりにくかったに違いない。それは認知が弱くなっていったときも変わらなかった。むしろ一層狷介になっていった気がする。
 「嫌なものは嫌」
正直なところ、それ以上の意思はわからないことが多かった。
家に戻ってきて2週間ほど経った頃だろうか、一度意を決して
 「お母さん、今一番の望みは何だろう?教えてくれるかな?」
と尋ねてみたことがある。
すると、返事は
 「もう何もない」
そのときは本当に本当に悲しそうな顔だった。絞り出したそのかすれ声はたぶん一生忘れることがないだろう。

20数年にわたる夫たる父と二人きりの小宇宙。
初対面の人が交わることがほとんどない、その小宇宙。
突然、数多くの初対面の人と交わることになる。
最初の大学病院では、
4人の医師(チーム制だった)、多数の看護師、栄養士、事務スタッフ、あと病院付きのソーシャルワーカー。
近所の病院では、
医師、看護師、理学療法士、言語聴覚士、栄養士、事務スタッフ、ケースワーカー。
自宅介護では、
ケアマネジャー、医師、訪問看護師、レンタル介護器具屋さん。
20数年にわたって、このように一度に多くの人と交わることはなかったのではないか。

繰り返すが、個々、それぞれの立場で本当に本当に頑張ってくれたと思う。
感謝したい。
ただ、あくまでも自分の観測範囲だけではあるが、
あるときはクレアチニン、あるときは効く抗生剤の種類、あるときはカロリー、あるときは介護点数・保険点数、あるときは血中酸素、そして最後は脈拍と、数値にこだわり数値にその頑張りを捧げる 後ろ姿は、なんとも言えない違和感と、そして何か「仕方がない」「仕方がない」というつぶやきが聴こえてくるように感じた。

少なくとも、そこには母の姿はみえなかった。

多くの立場の人が介在し、当たり前のように、各々の立場で動き出すその世界は、しかも何かと繋ぎ合わせる必要があるその世界は、久しく外界と交わったことがなかった母と父にとって、それはそれは負担だったに違いない。
無理もない。彼らが壮年の時代では、せいぜい医師と看護師くらいしかいなかったのだから。

医療や介護の高度化・専門化は、それによる支援者が増えることは、医療の進歩によって避けられないものなんだろう。

ただ。
もし、この世に未来があるならば、これら多くの支援者を、父母のような老たる当事者がつなぎ合わせる未来より、
支援者同士が素早く繋がってチームを形成し、局面に合わせてメンバーが変わり別のチームを形成する、その一方で当事者からは一貫して同じチームに見える、そんな未来の方が、幸せなのではなかろうか。

チームの形成に限っていえば、これは別に医療や介護の分野に限ったことではなさそうだ。開発、ソフト開発でも同じ課題があるような気がしている。

だとしたら、どうなるとよいか。なにより、自分はどうしていくとよいのか。

すくなくとも、今回、家族の一員として、わかりあえない相手に対する対話の礼法とスキルは、とても役立った。
それは、大学病院からクレアチニンが良くない状況下で母を退院させる局面でも、近所の病院で胃瘻をすすめられた局面でも、何かとギクシャクしたケアプラニング会議の局面でも。
大事なそのとき・そのとき「今母の望んでいるのは一体なに?」という問いを忘れずに、決して譲れない願いを前にして進めることができたとおもう。
ここ20年近く会ったことがなかった妹とも、最初はギクシャクしていたが、最後はよく話し合えるようになった。
何よりも
母とは、最後、お互い好きだった陶芸、招き猫まつりの話で話をすることができた。きっと母の導きだろう、本当に久しぶりに瀬戸招き猫百人展に入選でき、感謝を伝えることができた。

いずれも、決してわかりあえることのない相手だった。
決してわかりあえることのない相手だったし、常にうまくいったわけではない。ただ、わかりあえる瞬間があり、ほんのちょっぴりであるが、あらたな未来を開くことができた。
それは「仕方はない」とつぶやき続ける現実より、少しではあるが幸せな現実を作り出せたのではないか。

母の死に際して、ずっとそんなことを考えている。

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