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祝えっ2

最近、といっても数週間前だけど、仮面ライダージオウのTVシリーズと劇場版を見た。いや〜、面白かったですねえ。

仮面ライダージオウっていうのは、平成仮面ライダーの20作目に当たる記念碑的なライダーで、平成最後のライダーということもあって、その劇場版では平成ライダーを総括する映画としてある種のトンチキ映画でありながら製作者の情熱とエクスキューズに溢れた名作映画でもあるという不思議なものが生まれることになるのだが、その話はまた後でしましょうかねっ。

TVシリーズの方からストーリーを説明すると、主人公は常盤ソウゴという高校生で、彼には王様になるっていう夢があるんだけど、どうやら彼は50年後の未来で世界を支配する最低最悪の魔王、オーマジオウになってしまうらしい。

50年後の世界でレジスタンスとしてオーマジオウに抗っていた少年ゲイツと少女ツクヨミが、ソウゴがオーマジオウとなる未来を阻止する(=ソウゴを倒す)ために未来からやってきたり、オーマジオウの信奉者・ウォズという青年がソウゴを魔王にしようと暗躍したり、タイムジャッカーとかいう連中が別の者を王に擁立しようとしたり、そんなキャラクターたちと関係性を育みながら、ソウゴは果たしてその夢である“最高最善の魔王”になれるのか?というのが主なジオウのストーリーである。

そんなジオウは、平成ライダー20周年という記念碑的な要素として、過去の平成ライダーと出会ってその力を貰いながら魔王への道を歩んでいくことになるんだけど、こういう「過去の仮面ライダーと出会う旅」的なことは平成ライダー10作目のディケイドでもやってて、でもジオウではディケイドとはまた違うアプローチだったのが面白かったですね。

ディケイドではどういうアプローチだったかというと、過去の平成ライダーのドラマを2話完結の形で再構築しながら、当時のドラマでは回収出来なかった要素を拾っていく、リメイク的な要素があって、懐かしいあのライダーをまた見られる!っていう喜びがあったんですよね。

じゃあディケイドという縦軸のドラマ自体は面白いのか?というと、もはや平成ライダーというデータベースを参照するための端末として機能しているのみで、ドラマとして破綻して、そのままTVシリーズでは物語は完結せずに劇場版に続く、、みたいな、面白いアプローチではあったけどドラマとしては残念な感じだった訳で…。

それを踏まえて、ジオウで久々に平成ライダーシリーズに帰ってきた白倉Pが何をやろうとしたのか、これは本とかインタビューとか読んでないから完全に推測だけど、たぶん「平成ライダーのデータベースを参照しつつもドラマとして成立するディケイド」をやり直そうとしたんだと思うんですよね。

ディケイドは作中で何故か「世界の破壊者」と呼ばれるけど、この要素はTVシリーズでは碌に回収されなかった。ジオウではこれを「魔王」に置き換えて、魔王になる者、それを支える者、それに抗う者たちの、それぞれのキャラクターの正義と日常を描きながら、戦いの運命は避けられないのか、それぞれの関係性はどう変化していくのか、みたいな、平成ライダーの各作品と親和性の高い要素が散りばめられていて、それぞれの葛藤みたいなものに対して過去のライダーとの関わりで回答が提示される、という構成は素直に感動しましたね。

なかでもジオウ・ゲイツ・ウォズの戦いの運命を仮面ライダー剣に準えて描きつつ、剣にもジオウにもその関係性に調和をもたらしたのは、剣放送当時リアルタイムで見ていた人間として、ア〜、良かったねえ、もう普通の人間として日常を生きてもいいんだよ、とさわやかな気持ちになれてよかった、そう思いませんか?

ゲイツとウォズのキャラクターも良かったよねえ、ゲイツはソウゴの人間性に惹かれながらも戦いの運命との間で葛藤していて、容姿も立ち位置も仮面ライダー龍騎に出ていた秋山蓮というキャラクターに似ている、おれはずっと秋山蓮の幻影をゲイツに見ていて、10年以上の「蓮、幸せになってくれ、笑ってくれ〜〜〜!」という気持ちをゲイツにも注いでしまった結果、情緒がめちゃくちゃになってしまった。おれだけですか?これは。

あとゲイツは変身ポーズも、なんか重心とか体幹がしっかりしてる感じがして、こう、いいね、どっしり構えてこ!という気持ちで毎回にこやかになってしまった。おれだけですか?これは。

ウォズもいいんすよね、ソウゴが最低最悪の魔王になる運命を守るものという役割を自らに規定して、かと思えば、途中でゲイツがジオウを倒した別の世界線の未来からも2人目のウォズがやってきて、彼は救世主としてのゲイツを守るものという全く逆の役割を自らに規定している。

その2人目のウォズは仮面ライダーに変身することになるんだけど、その変身機構はプロジェクションマッピングを模していて、変身する時にはベルトからMOROHAの人のでっかい声で「投影!!!」って声がして、この、自らをどんな役割にも規定できる、ある種の芯のなさ、これは他者を支える役割に執着するところにも現れていると思うんだけど、それがこの「投影」という変身の仕組みにも現れているように感じちゃうんすよね。

そんなウォズが、「ジオウがゲイツを倒して魔王になる」というかつて理想としていた未来とは異なる、「ジオウにゲイツもウォズも協力して、民を守る王になる」という姿形のはっきりしない未知の未来を肯定して、祝福するようになる、というのがやはり感動的でしたね。めちゃくちゃ泣いちゃった。

あと、ウォズの変身の待機音、めっちゃかっこいいよなあっ、一時期YouTubeでずっと聴いてて、おれはこれをずっと聴くオタクになっちゃった、でもやめらんねえ、助けて〜になってしまいました。

あとキャストがみんな若くて、こども?こどもたち、がんばってるねえ、すごいねえ、という気持ちでずっと見てた、おれはもうおじさんとしての自己像を揺るぎないものにできている。これってすごくない?28歳ってまだ若いように思うけど、でもおれはおれをおじさんとおもっている。自分をおじさんと思ってないおじさんが一番ヤバいから。そうでしょう?

それはそれとして、ジオウも、それまでの平成ライダーももちろんドラマとして不完全なところはあって、そりゃ先が完全には定まらないまま毎週のペースで一年間ドラマを作らないといけないんだからまあ当然っちゃ当然なんだけど、そんな不完全な代物である平成ライダーを肯定する物語が劇場版の『仮面ライダージオウ Over Quartzer』で、これが本当にすごい映画だった。

具体的にどういう描写があるとか、そういう部分は実際に見なきゃ伝わらないと思うのでここでは省くけど、とにかくトンチキ映画なのに、そのトンチキさ自体が、平成ライダーという不完全なコンテンツを、そして毎週必死にドラマを作った製作陣やキャストの生き様、その人生の歪さすらも肯定するためにというすごい構成になっていた。

しっかり熱いセリフやシーンと、バカバカしい画の力が波状攻撃のように情緒のいろんなところをくすぐるので、しっかり泣いたししっかり笑いました。こんなのおれはじめてだよ。

最近のスパイダーマンNWHもそうだけど、文脈とか歴史の重みそれ自体が、映画の出来以上に強い力を持ってしまうことって素晴らしいことでもあるし恐ろしいことでもありますね。

ジオウを見て、やっぱ平成ライダーていいね!の気持ちになって、あと最近は暴太郎戦隊ドンブラザーズがとにかく面白いので、両方に関わっている白倉Pと井上敏樹の思想に触れたくて、ユリイカの平成ライダーの号と白倉伸一郎の『ヒーローと正義』を買いました。

この辺にAmazonリンクで書影出せんのか?どうだ?

出てんのか??

出てんのか?

どうなんだ???

明日はドンブラザーズ、楽しみですねえ、見よ〜〜〜っ!

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