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泣きたくなるような感情の揺れ動く刹那に、僕は何を思うのだろう

僕は恋人に限らず、大切な人や大好きな人と、1日一緒に過ごしたりしてお別れする時、一瞬、泣きたくなるような感情に襲われることがある。

この感情を言葉で表現するのは難しい。
哀しいような、辛いような、そんな感じがするけれど、どこか儚くて美しい。

この複雑な気持ちは一瞬励起して、少しの残像を残して消えていく。
その残像を抱えて帰路を歩くことは、フィルムに映像を残すようなものなのだろう。その日のことを思い返して、感情と一緒に記憶に刻んでいく。

この感情は、どこからやって来るのだろう。

それはおそらく、“当たり前なんて存在しない”という認識なのではないかと思う。

最近、ミシルさんやミシリスナーの皆さんの発信などを見聞きする中で、この世に“当たり前”なんて存在していないことを思い知らされているように感じる。

それは、特に人間関係においては顕著だ。
価値観の違い、不意なすれ違い、喧嘩、浮気、物理的距離、人生の終わり。
原因はあげればキリがないが、当たり前に続くと思っていた関係は、いつか終わる。絶対に。

人生はコンテンツだ。
コンテンツを積み上げていくマラソンゲーム。
コンテンツには終わりがある。
終わりがなければコンテンツのオーディエンスは食いついてくれない。
そのオーディエンス席の特等席に座っているのは、他でもない自分だ。
自分が積み上げてきた人生を、最終的に評価するのも他でもない自分。
悔いの残らない人生なんて存在しない。
だからこそ、唯一存在している“結末”に、悔いの答えを見出そうとするのではないだろうか。

話を戻すと、僕は、「終わりを知っている人たちが、それでも願う“永遠”こそ、この世で最も“永遠”に近い」と思っている。
終わりを知っているからこそ、いまを大切にできる、相手の存在は当たり前ではないと理解している、だから永遠に近づける、と。

その両者には、信頼や安堵といった、ポジティブな感情が築かれているのかもしれないが、“終わり”を知っているのだ。
それを不意に意識してしまうと、泣きたくなるような感情に襲われるのではないか、と僕は思う。
でもその感情の中に、たとえ細く、脆くとも、「美しさ」や「儚さ」が混じっていれば、それは両者の関係が良好なものである証なのではないかと思う。

ここでさよならしても、「またね」があること。
その「またね」に向けて生きていくこと。
その日が無事訪れるように、相手を思いやること、大切にすること。
自分の抱えている愛はちゃんとぶつけること。

その積み重ねの果てに、永遠があると願って。

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