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インゴ・スワン「リアル・ストーリー」(13)

リモートビューイング(遠隔透視)の物語に不可欠な自伝的要素に関して、この世の表と裏の道を熟知している人々からよく尋ねられるいくつかの質問に対し、あらかじめ答えておくことにしたい。

その疑問は、1971 年以降に生じた非常に困難な状況の中で、私がどのようにしてこれほど長い間リモートビューイングの実験を続けることになったのか、そして同時にどのようにして「一般的な通念」に反抗し、新しい概念を導入することができたのか(これには私よりもはるかに強力な他の人の援助があったことは言うまでもない)に関係している。

この質問をわかりやすくするために、ここで少し脱線して、「リモートビューイング」を巡る実際の状況の性質が、楽観主義者、スピリチュアリティ愛好家、および同様に愚かな人々の認識とはまったく異なっていることを指摘する必要があある。

リモートビューイングの現場は、厳しく、要求が高く、冷酷で容赦がなく、完全に競争的であり、しばしば命にかかわるものだった。善と創造、甘美な光、永遠の楽観主義に基づく、より柔和で高揚する世界は確かに存在するのだろう。だが1971 年、38 歳のときに私が思いがけず足を踏み入れたのは、ほとんどの人間の活動範囲を逸脱する過酷な世界だった。

この見解は哲学的な思索に基づくものではなく、私の直接の長期に及ぶ経験に基づくものだ。 柔和で高揚するような世界は、心霊研究、超心理学、科学、懐疑論、政府組織、アメリカ諜報機関といった社会的仕組みの中には存在する余地がないし、明らかに国際スパイ活動の領域内には存在しない。

もちろん、リモートビューイングというテーマは啓発的であり、創造的な目的をかき立てるものだ。だが感動的なものと現実的なものは別である。1971年当時はそれほど確信していなかったが、今になって私が確信しているのは、これらの世界の内部の仕組みは、非人間的で致命的なものであり、個人というものが事実上取るに足らない領域であるということだ。

そのような危険で困難な領域において、消耗品以外の存在として3か月以上生き延びるために絶対に必要な条件は、ある程度の想像力と賢明な創意工夫のキャパシティを持っているかどうかということである。

このような厳しい見方に対し、多くの肯定的で楽観的なタイプの人はそれを信じようとしないことを私は認める。ただ次のことを考慮してほしい。

現代社会では、「超能力者」の居場所は周辺部分以外には存在しない。そして現代社会の主流派は、超常現象や超能力というテーマを拒否し、その否定の文化が永続的に続くことを確かなものとするために、積極的な教育的および脱プログラム化の措置を講じている。

アメリカの諜報機関よりも社会の中枢に存する組織は存在しない。「超能力者」(残念ながら私はそう呼ばれることになった)がこのような組織の国際スパイ活動の領域に参入する可能性や、ましてや陰謀にまみれた世界で18年も生き延びる可能性は低いと言わざるを得ない(そのような可能性はもはや現時点では存在しないだろう)。そして、これからはっきりと示すように、特に超心理学の世界で超能力者が生き残る可能性は、たとえその超能力者が成功した実験結果を示したとしても、ほぼゼロである。

したがって、そのような状況の中で生き残るためには、「超能力者」としてではなく、むしろ実務的な能力を十分に備えた冷酷無比なマシーンの特性を備えていなければならない。

リモートビューイングを巡る私の自伝的な物語に入る前に、指摘されなければ気づかれない3つの重要な要素を指摘する必要がある。

その最初の要素は、ソ連の状況によりいわゆる「心霊現象」に関心を持たざるを得なかった諜報機関の持っていたニーズである。この関心は従来の西側主流派の中で明らかに物議を醸していた。

第二の要素は、ESP または超常現象が実際に存在するかどうかを判断するニーズである。

第三は、そのようなものが実際に存在する場合、それが冷戦や国際状況の中でさまざまな目的に利用できるほど開発、強化できるかどうかを判断するニーズである。

要約すると:
(1) 諜報機関コミュニティは、ソ連の状況により、アメリカのメインストリームで嘲笑されてきた超常現象の話題に関心を持たざるを得なくなった。 この関心を正当化したのは、次の2つのニーズである。
(2) この「新たな関心」を正当化するための最初のステップとして、「超能力が本当に存在するか」どうかを確認する必要があった。
(3) その答えが肯定的であった場合、超能力の開発と応用が可能かどうか、可能であればそれが国家にとって脅威となりうるものかどうかを迅速に発見する必要があった。

多くの人が諜報機関についてどう考えているかはともかく、その使命はよく知られ支持されている:それは国家に対するあらゆる脅威を探知することによって国家の安全を守ることである。諜報機関がこの点でしばしば失敗をするとしても、本質的な任務の重要性が減ずるわけではない。

次の章から示すように、特定の期間にわたり諜報コミュニティ内の特定の分子が「超心理学(パラサイコロジー)」の領域を追跡、監視していたのは事実である。

1969 年の時点で超心理学が明らかにしていたことは、特定の psi(超能力) 効果が統計的に最小限の値で存在するということだけだった。明らかに、そこには潜在的な「脅威」となりうるものは何も発見されていなかった。一般的な認識は、超能力(psi )は仮に存在するとしても偶発的なものであり、まったく脅威ではないというものであった。

だが、それが事実だとしたら、ソ連は一体何を企んでいたのか?なぜKGBのような機関があれほど巨額の資金をその研究に費やしていたのか?

米国、さらには西側諸国全体の超心理学的な知識を総合しても、明らかに答えが見つからなかったため、従来の超心理学的な知識は脇に置かなければばならないことが明らかになった。それは実際、無視されるべきものであり、全体的な状況に対する斬新でユニークな洞察をもつ新しい知識に取って代わられるべきものであった。

明らかにこの「取り組み」(と呼ばれていた)は、西洋の固定概念である超能力と超心理学の概念から逸脱する必要があった。これには 2つの意味があり、1つ目は2つ目へとつながる。

第一に、諜報機関のニーズを下請けに出したり、超心理学に委任することはできないということである。超心理学は、その長い歴史にもかかわらずニーズに対する答えを持っていなかった。

第二に、諜報機関は独自のプログラムを確立し、ほとんど不毛な超心理学の方法ではなく、自らの問題に照らした斬新なアプローチに基づいて計画する必要があった。

1971年から1972年までの私自身の人生の状況は、諜報機関の第一のニーズと統合する形で発展していった。その後、主に私の知識と論争能力のために、私自身の状況は諜報機関の第二のニーズに活用されることになった。

もっとも、1971年から1972年以前の私は考えの甘い軽薄な人間で、超能力、心霊研究、超心理学といったものに非常に魅了されていたことを認めなければならない。私は、これらのテーマについて趣味的に探究しているにすぎないほとんどの人がそうであるように、自分自身の「現実」に完全に閉じ込められていた。

だが私のそれまでの人生経験と精神世界の熱心な研究は、その時が来たときの備えとなっていたのである。この「心の準備」こそが、私がいかに生き残ったのかという問いへの答えであり、リモートビューイングとそれに関わるすべての真実の物語に密接に関係する私の自伝的部分を構成している。

この準備ができたのは、私の人生にとって本質的な 2つの要因によるものだと考える。
1つ目は、私が 4 歳の頃から「本の虫」だったという事実と、その後に膨大な量の本を読破したこと。
2番目の要因は、私が陸軍時代にハイレベルの階層で働いていたという事実である。私はその後、国際連合事務局で12年間勤務した。
いわば、これら 2つの「状況」の中で、私は現実世界で起こっていることの多くを目撃し、それを直接学ぶことができた。それは表面的で非現実的なビジョンとは対照的なものだった。

この2つの要素がなければ、私はかなり早い段階で永久に打ちのめされていただろう。実際これから説明するように、私は何度か打ちのめされたが、その度に立ち上がることができた。

3番目の要素もあった。それは「大胆な行動」と呼ぶことができるかもしれないもので、物語の中で明らかになっていくだろう。

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