見出し画像

レオナルド・H・ストリングフィールドUFO墜落/回収報告書について

先日ブックオフでこんな本を見つけたので買って読んだ。

ムー・スーパー・ミステリー・ブックス、2003年

本の後半部で、以前このブログでも話題にした「河童伝承=グレイ来訪説」について検証していて、この本の結論は、驚くべきことに
河童=グレイ(異星人)なのではなく、
グレイ(異星人)=河童 なのだ!
というもので、別にそれはどうでもいいのだが、
この本で得た唯一の「成果」は、
アメリカのUFO研究家レオナルド・H・ストリングフィールドという人物について知ったことだった。

Leonard H. Stringfield、1920-1994

彼は、CIAや軍関係者などから得た証言をもとに、1978年に衝撃的な報告書を発表し、それが現在至る「グレイ(異星人、エイリアン)」のイメージを決定づけることとなったのである。

その「The UFO Crash/Retrieval Syndrome: Status report II」(UFO墜落/回収報告書)には、墜落したUFOから回収された異星人の遺体を観察し、解剖した医師たちの証言が記載されているのだが、その内容は現在流布している「グレイ」のイメージの基礎となるものであり、以前紹介した地球外生物圏生物 (EBO) の研究者の証言とも概ね一致する。

例えば、「ケース A-6」では、元CIA職員からの情報として、1962年のニューメキシコ州の墜落事件についての証言がある。

UFOが墜落 中で乗組員二人の遺体がみつかる
UFOの直径68フィート(約20メートル)、高さ13フィート(約3メートル)円盤
乗組員の身長は42インチ(約1メートル)
ボタンもジッパーもないワンピースジャケットを着用
皮膚の色はグレイ・ピンク
身体に比べて頭が若干大きい
目は通常よりいくらか大きい
鼻は小さくほぼ突起なし
耳たぶはないが耳の部分に穴あり、内耳あり
口は非常に小さく唇は薄い
円盤は南西の軍事基地に運ばれ科学者とエンジニアが調査
総勢20名が関わり、うち3名は死亡(いずれも自然死)

ケース A-7」においては、1950年代に遺体を解剖した医師からの情報としてさらに詳細が報告されている。

平均的なヒューマノイド型エイリアンの身長は3.5フィートから4.5フォート(1~1.3メートル)、体重は40lb(約18キロ)
瞳孔のない二つの円い目
重い眉の隆起の下に大きなアーモンド形、細長く、沈んでおり、または深くセットされており、遠く離れていて、わずかに釣り目で、東洋人またはモンゴロイドのように見える
頭部は人間に比べれば大きく身体に比べても大きい
五か月目の胎児のような外見
頭の両側に耳たぶや隆起がない
鼻はあまり見えない 二つの鼻孔がわずかに隆起しているように見える
口は唇がない小さな裂け目があるだけ 小さく開くだけ
言葉を発したり物を食べたりするための口には見えない
首は細い 衣服に覆われてほとんど見えないときもある
大半の証言者は髪の毛はないと言う 
わずかな羽毛のようなもの 体毛もない
身体は小さく細い メタリックで柔軟な衣服を着ている
腕は長く細いい 膝まで届く
四本の指をもつタイプ 親指はない
二本の指が他の指より長い 爪を見た人もいるが爪がないという人もいる
指の間にわずかな水かきを見た人もいる
脚は短く細い つま先がないタイプがある
大半の証言では脚は覆われている オランウータンに似ているという人もいる
皮膚は緑ではない
ベージュ、黄褐色、茶色、ピンクがかった灰色、「青みがかったグレー」という人もいる
二つの事例では焦げたようなダークブラウンもあった
うろこ状で爬虫類のような収縮性と弾力性のある皮膚が筋肉や骨格の上にある
横紋筋、汗、体臭はない
歯はない
生殖器はない 進化の過程で収縮したと思われる
性器はない
大半の証言は、ヒューマノイドの顔は「鋳型から取り出したような」単一の造形だったという
脳とその能力は不明
無色の液体が体内を循環していて、赤血球はない リンパ球なし
酸素運搬体なし 食物も水も摂取しない
円盤内に食料は発見されず
消化器官も消化管もなし 腸管も直腸もなし
ヒューマノイド型は一種類ではない
寿命は不明 
地球のホモサピエンスより多様性はないと思われる

ケース A-9」では、1953年春、ニュージャージー州Ft.Monmouth空軍基地で円盤と乗組員の遺体のビデオ(5分程度)を見せられたレーダー専門家の証言がある。

二つのテーブルの一方に二体、もう一方に一体が寝かされていた
三体とも同じように見えた
頭部が大きく、モンゴロイドのようで、鼻と口が小さく、目は閉じられていた
耳と髪の毛はなかった
皮膚は灰色
パステルカラー(黄色と淡いグリーン)のぴっちりしたスーツを着ていた

同様のフィルムを見せられた複数の証言あり

1978年の発表後にもストリングフィールドのもとには多数の証言が寄せられた。

レナード・ストリングフィールドは 1920 年に生まれ、オハイオ州シンシナティで育ち、1939 年に高校を卒業。辞書をすべて暗記するという目標を達成し、高校の卒業アルバムには「ウェブスター」という称号が付けられたという。

1941年の真珠湾攻撃について聞くとすぐに、ライトフィールドの第5空軍(後のライト・パターソン空軍基地)に入隊。第二次世界大戦中、C-47で飛行中に「フー・ファイター」を目撃し、それが彼のUFOへの興味のきっかけとなった。

軍での最後の数年間、彼は対諜報活動に従事した。 戦後、レナードはオハイオ州のデュボア・ケミカル社に雇用され、広告部門で働いた。 彼は広報部長の役職を30年間務めた後、退職した。

レナードは 1952 年に CRIFO (民間研究惑星間飛行物体) を設立した。これは当時初の世界規模の UFO ニュースレターであった。NICAP、MUFON、CUFOS などの多くの大きな UFO 組織に参加し、『Inside Saucer Post 3-0』(1957 年) と『Situation Red, The UFO Siege』(1977 年) を含む 2 冊の本を執筆した。

1978 年にオハイオ州デイトンで開催された国際 MUFON シンポジウムでの「UFOの回収」と題した画期的な講演はセンセーションを巻き起こし、UFO が地球に墜落し、その乗組員が死亡した可能性があるという可能性を一般の人々に知らしめることとなった。

1978 年から 1994 年にかけて、レナードは 7 つの「現状報告書」を出版し、進行中の研究に関する情報を読者に提供し続けた。

彼は1994年12月18日、肺癌で長い闘病生活の末に亡くなった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?