見出し画像

1 シュメール人とアッカド人の王朝

  • 前5500年頃:メソポタミアにて、周濠や城壁をめぐらして防御を高めた集落が出現。周濠や城壁はテル・エス・サワンに、城壁はチョガ・マミに残されている。土地争いが起こっていたか

  • 前4300年頃:メソポタミアにて、周辺の小集落群を従属させる村や町が出現したか

  • 前3500年頃:メソポタミア南部でシュメール人(シュメル人。シュメール語ではキエンギ)の都市国家建設が始まる

  • 前3500年頃:この頃に、シュメール人とエジプト人が戦ったか。両者ともに船を用いていたらしい

  • 前3300年頃:南部メソポタミアの人々が商業活動のために、シリア地方などに植民都市を建設(ハブバ・カビラなど)

  • 前3300年頃:南部メソポタミアにて王権が確立

  • 前3000年頃:メソポタミアで銅と錫を合金する青銅器の使用が始まる

  • 前2900年頃:シュメール地方で初期王朝時代が始まる。以後、都市国家間の抗争が激化

上図:メソポタミア要図

出典:『古代メソポタミア全史』
  • 前2900年頃:セム人がキシュ第1王朝を創始

  • 前2750年頃:キシュ王メバラシが統治

  • 前2750年頃ウルク第1王朝(ウルクはシュメール語ではウヌグ)の王ギルガメシュ(シュメール語ではビルガメシュ)が従属を迫るキシュ王アガと対決、これを破ったか。アガは捕らえられたが、解放されたという

上図:ギルガメシュ。実在の可能性は高いが、確実ではない。ウルクに城壁を初めて建設したという

出典:Wikipedia
  • 前2590年頃ウル第1王朝が成立(~前2450年頃)

上図:ウル王墓出土の黄金の短剣

出典:Wikipedia

上図:ウル王墓出土の黄金製冑

出典:Wikipedia

上図:ウル王墓出土の「ウルのスタンダード」。用途不明の木製の箱であり、これは「戦争の場面」を示す。歩兵や戦車がみえる。戦車を牽いている動物は、ろばやオナガー(アジアノロバ)などと推測されており、車輪は板を2枚合わせただけのもの

出典:Denis Bourez from France, CC BY 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/2.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前2550年頃:キシュ王メシリムがラガシュとウンマとの争いを調停。この頃にはラガシュとアダブがキシュに従属しており、メシリムが最初の覇者であった

  • 前2500年頃:ウル王メスアンネパダが覇者を示す「キシュの王」を名乗る

  • 前2500年頃ラガシュにてウルナンシェウルナンシェ王朝(ラガシュ第1王朝)を創始。ウンマと肥沃な耕地グエディンナを巡って抗争が起こり、ウンマのウシュ王がラガシュに侵攻。また、ウルナンシェはラガシュに城壁をめぐらしたという

上図:ウルナンシェ

出典:Wikipedia
  • 前2450年頃:ウル第2王朝が成立

  • 前2450年頃:ラガシュ王エアンナトゥムがウンマと、ウルク王ルガルキニシェドゥドゥなどのウンマの同盟軍を破る。この時の同盟軍には、ウルクの他にウル、キシュ、アクシャク、シリアのマリなどが参加していたか。エアンナトゥム自身は戦いの中で目に矢を受けたというが、エラム王国(スサを都とする)の諸都市やウルア市、ウルク、ウル、キウトゥ、キシュ、アクシャク、マリ、ウルアズも打倒。エラム人は征服され、更にウルアズの王を殺害した。ウンマ王エンアカルレとは国境を元に戻す協定を結ぶ。加えて彼は「キシュの王」を宣言した

上図:「エアンナトゥム王の戦勝碑」表面。エアンナトゥムに率いられた密集兵団がみえる。彼らは槍兵と楯兵に分かれていた

出典:Sting, CC BY-SA 3.0 <http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前2400年頃:ウンマ王ウルルンマが諸都市とともにラガシュを強襲。ラガシュ王エンアンナトゥム1世は敗死。ウルルンマ以後のウンマ王は「すべての王」を自称

  • 前2400年頃:ラガシュ王エンメテナがウンマをルンマギルヌンの堤にて撃退。ウンマの独立を奪い、ラガシュとウンマの争いに終止符を打つ

  • 前2400年頃:エンメテナがウルク王ルガルキニシェドゥドゥと同盟を結ぶ(最古の同盟)

  • 前2400年頃:ウルク王ルガルキニシェドゥドゥがウル王を兼ね、ニップルに進出

  • 前2400年頃:エラム人がラガシュに侵入するも、神殿の最高行政官であるルエンナがこれを破る

  • 前2400年頃:エンアンナトゥム2世が死去し、ウルナンシェ王朝が断絶。後継として、別の家系(傍系か)であるエンエンタルジが即位

  • 前2340年頃:ウルク第2王朝の王エンシャクシュアンナがアッカド市及びキシュを討伐。キシュ王エンビイシュタルは捕らえられ、キシュは占領された。また、エンシャクシュアンナは「国土の王」を名乗る

  • 前2334年頃セム語系アッカド人であるサルゴン(アッカド語でシャル・キン)がキシュ王ウルザババから独立し、アッカド王朝を築く。この後、サルゴンはバビロニア北部を統一

上図:伝サルゴン王頭部像。ナラム・シンのものとする説も

出典:Wikipedia
  • 前2300年頃:おそらく軍司令官であったウルイニムギナがラガシュ王ルガルアンダから王位を簒奪し、即位

  • 前2290年頃:ウンマ王ルガルザゲシがラガシュ王ウルイニムギナを倒し、ラガシュを破壊。更にウルクやウル、ラルサなどを征服。自身はウルク王となり(ウルク第3王朝)、シュメール地方を統一。彼は「国土の王」を名乗る

  • 前2285年頃:アッカド王サルゴンがルガルザゲシを打倒。ルガルザゲシは捕虜となった。更にサルゴンはウルやラガシュ、ウンマなどを占領。これにより、シュメール・アッカド地方が統一される(サルゴンは「全土の王」を名乗る)。また、西方ではマリにまで遠征し、東方ではエラムを支配し、その首都スサも併合。メソポタミア北部のスバルトゥの地や下ザブ川上流地域にも遠征した。恐らくフリ人とも戦ったと考えられている。サルゴンの軍隊の強さの根源は5400人の常備軍と短弓(複合弓。複合弓とは木、動物の骨あるいは金属を張りあわせて強化した弓のこと)で、34回の戦闘でサルゴンは勝利したという

上図:アッカド王朝の版図

出典:Middle_East_topographic_map-blank.svg: Sémhur (talk)derivative work: Zunkir, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前2278年頃:アッカド王リムシュが即位。彼はウル王カクが主導するシュメール地方の反乱を鎮圧し、湾岸地方に遠征。さらに対エラム戦争を開始し、全エラムの宗主権を得たという

  • 前2270年頃:リムシュが家臣に殺害される

  • 前2269年頃:アッカド王マニシュトゥシュが即位。対エラム戦争を継続し、アンシャン市やイラン高原奥地に遠征。エラムは服従したという。また、王はペルシア湾岸の諸都市も攻撃。彼の治世には、アッシュルがアッカド王朝に臣従していたか

  • 前2254年頃:アッカド王ナラム・シンが即位。彼はキシュとウルクの首謀した、シュメール諸都市全てが参加した反乱を1年の内に9度の戦いで鎮圧。キシュ市を水攻めにしたという。この後、ナラム・シンは「四方世界の王」を名乗り、自らを神格化。続いて、アルマーヌム(アレッポか)及びエブラを征服。更にシリアやレバノン、アマヌス山脈、アナトリア諸地域へ遠征し、レバノンや地中海までの地域を支配(アッカド王朝の最大版図)。アナトリアへの遠征はカネシュに居住するメソポタミア商人らの利益を守るためであったという。また、エラム主導で反アッカド闘争が起こるも、ナラム・シンはこれを鎮圧。スサも占領し、北東の山岳民族ルルブ族討伐のためにザグロス山脈に進軍し、ルルブ族の首長サトニを破る。加えて、北方の平原に広がるスバルトゥ(アッシリア)も征服。ルルブ族やスバルトゥには貢納を課した。他にもペルシア湾頭やマガン(現在のオマーン)も攻め、マガンからは朝貢団が到来した。一方でアナトリアではハッティ王パンバ、カネシュ王ジパニ、クッシャラ王ティシュビンキ、そしておそらくブルシュハットゥム王ヌール・ダガンら17人の支配者の連合軍がナラム・シンに対して反乱。なお、ナラム・シンの時代以降にシリアでは各地で都市が破壊されている。この破壊の原因が外部の諸王朝によるものか、移住者(例えばアムル人)の襲来によるものかは不明

上図:「ナラム・シン王の戦勝碑」。ルルブ族に対する勝利を記念。王は弓を用いている

出典:Wikipedia
  • 前2250年頃:ナラム・シンがイラン高原西部のアワンの王と条約を結ぶ

  • 前2217年頃:アッカド王シャル・カリ・シャリが即位。「だれが王であり、だれが王でなかったか」と書かれるほど、アッカド王朝は衰退状態となる。ザグロス山脈の異民族グティ人やエラム、遊牧民のアムル人(シュメール語でマルトゥ人。セム語系)が侵入。シャル・カリ・シャリは南方・北方・西方の諸国と戦った。特にアムル人に対しては、バシャル山の戦いにて勝利。しかし、グティ人の支配のもとにウルクやラガシュなどのシュメール諸都市が離反。アッカド王朝は地方政権となる。他にも、ナラム・シンの臣下が謀反を起こした

  • 前2200年頃:フリ人のアタル・シェンが「ウルキシュとナワルの王」を自称。下ザブ川とディヤラ川に挟まれた地域、ハブル川上流域までを領有

  • 前2200年頃:ラガシュ第2王朝が成立

  • 前2193年頃:シャル・カリ・シャリが殺害される

  • 前2154年頃:アッカド王シュ・トゥルルが、ウルク第4王朝の王ウルニギンに敗北。アッカドの政庁はウルクに遷され、アッカド王朝は滅亡

  • 前2150年頃:グデア王の治世にてラガシュ第2王朝が繁栄

  • 前2123年頃:ウルク第5王朝のウトゥヘガルがグティ人の王ティリガンを破る。ティリガンはダブルムに敗走するも、捕らえられた

  • 前2113年頃:ウトゥヘガルが溺死

  • 前2112年頃:ウトゥヘガルの弟(息子とも)で、ウルの軍事司令官のウルナンマがウルで独立。ウル第3王朝を創始。彼は『ウルナンマ法典』を編纂(最古の法典)。対外政策として、エラム支配下で奴隷状態にあったウンマ、スビル、カザルとその周辺地域、更にウザルムに自由を回復させる。また、シリアのマリ王国はウル第3王朝に従属し、王女を嫁がせている。他にもアッシュルがウルに臣従

上図:ウルナンマ

出典:Wikipedia

上図:『ウルナンマ法典』

出典:Wikipedia

上図:ウルのジッグラト(聖塔)であるエテメンニグル。ウルナンマが修復・拡大した

出典:Hardnfast, CC BY 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前2100年頃:メソポタミア、エジプト、シリア、パレスチナ、アナトリア各地にハビルが出現。彼らはエジプトの権威に従わず、不当占拠や略奪などを行っていたと考えられ、伝統的社会制度に組み入れられない人々を指していたか

  • 前2095年頃:ウルナンマ王が戦死

  • 前2094年頃:ウル王シュルギが即位。シュルギの治世がウル第3王朝の最盛期であった。臣従していたマリは恐らくシュルギに娘を嫁がせている

上図:シュルギ

出典:Wikipedia
  • 前2075年頃:ウル王シュルギが常備軍を設立したか

  • 前2074年頃:シュルギがティグリス川東岸のデール市を征服

  • 前2072年頃:シュルギが自身を神格化

  • 前2071年頃:シュルギによる第1次フリ戦争(~前2068年頃)。シュルギは北部イラク、シリア、トルコにあった諸国に遠征。この地域にはフリ人が多く居住。彼らはザグロス山中からヴァン湖周辺、トルコ南東部からイラン北西部にまで広がっていた。この年にはカラハルが征服される

  • 前2070年頃:シュルギがフリ人の国シムルムを征服

  • 前2069年頃:シュルギがシムルムを再度征服

  • 前2068年頃:シュルギがフリ人の国ハルシを征服

  • 前2064年頃:シュルギによる第2次フリ戦争(~前2062年頃)

  • 前2058年頃:シュルギ王がアムル人の侵入を防ぐために「バド・イギフルサグ」という城壁を現在のバグダード北方に建設

  • 前2053年頃:シュルギによる第3次フリ戦争(~前2047年頃)

  • 前2051年頃:シュルギがシムルムに遠征(9度目)

  • 前2050年頃:シュルギがシムルムに遠征

上図:ウル第3王朝の支配領域

出典:『古代メソポタミア全史』
  • 前2041年頃:ウル王アマル・シンの兄弟(親子とも)であるシュ・シンが王を自称。アマル・シンの后妃アビ・シムティがシュ・シンの王位簒奪を助けたか

  • 前2039年頃:アマル・シンが死去。首都で政変が起こったか

  • 前2037年頃:シュ・シンがウル王に即位。彼の治世にはエラムにて、ザブシャリ国が中心となり、おそらくウルミア湖周辺から南部までの地域が反乱。シュ・シンはこれを鎮圧

  • 前2035年頃:フリ人の国シマヌムがウルに反乱。シュ・シンは娘をシマヌムに嫁がせていたが、シマヌムは娘を追放。シュ・シンはシマヌムを破り、シマヌム人を強制移住させる

  • 前2035年頃:シュ・シンがシムルムに遠征

  • 前2034年頃:シュ・シンがアムル人対策として「ムリク・ティドニム」という西方防壁を建設

  • 前2023年頃:ウルで大飢饉が発生

  • 前2017年頃:ウル第3王朝の武将で、穀物の買い付けを命じられたマリ出身のイシュビ・エライシンにて独立。イシン第1王朝を創始。当時、多数のアムル人がシュメール地方に侵入し、要塞などを攻略。一方で、イシュビ・エラはアムル人の族長らと友好関係を築く

  • 前2010年頃:イシュビ・エラがアムル人のヌール・アフムをエシュヌンナの支配者(知事)とする

  • 前2005年頃:エラム人がメソポタミアに侵入。これに対し、ウル王イッビ・シンとイシュビ・エラが連合したか

  • 前2004年頃エラムキンダットゥがウルを占領。ウル王イッビ・シンはアンシャンに連れ去られ、ウル第3王朝は滅亡。エラム人はシュメール南部の諸都市を破壊するも、イシンなどの北部の諸都市は持ちこたえる

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?