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1-13 アラム人とフェニキア人、新ヒッタイト(前1500年~前800年)

  • 前1500年頃:セム語系のアラム人がカナーン地方に移動。彼らの原郷はシリア砂漠で、牧畜民であったか

  • 前1200年頃:シリア砂漠からアラム人が移動を開始し、東シリアを攻略

  • 前1190年頃:ハットゥシャが放棄され、ヒッタイト帝国が滅亡

    • ヒッタイト帝国滅亡後の情勢

      • タルフンタッシャ、カルケミシュの副王国は存続。ヒッタイトの人々はシリア北部、なかでもカルケミシュに避難したか

      • ヒッタイト滅亡により、シリア・パレスチナではセム語族の先住民に加えて、新たな移住民の入植を受けて都市が発展。アナトリア南東部・シリア北部では旧ヒッタイト領のキズワトナからの移住民(ルウィ系・フルリ系の混合民族)が都市国家を建設(新ヒッタイト)。彼らはフルリ人の小都市群の支配者となった(「海の民」と結託したとも)

      • 代表的な新ヒッタイト諸国にはカルケミシュがあり、カルケミシュ王クズィ・テシュブはヒッタイト帝国の正統な後継者として「大王」を自称(他にもカラテペという国家にもヒッタイト王名を名乗り、ヒッタイト帝国の末裔を誇る王がいた)。カルケミシュの影響力はユーフラテス川沿いのエマルにまで及んでいた

      • 他の新ヒッタイト諸国には、タバル(小王国群の総称)やクンムフ(後のコンマゲネ)、ウンキ(パッティナ)、ハマトがある(ウンキ、ハマトはシリア)。新ヒッタイト諸国はときに軍事衝突を起こしていたが、アッシリアの攻撃に対しては協力関係が成立することもあった

      • ヒッタイトが滅亡したことで、オリエント世界は鉄器時代に突入し、北シリアなどでは早い段階で実用的な鉄製品が発見されている

上図:シリア・パレスチナ要図

出典:『古代オリエント全史』

上図:新(後期)ヒッタイト諸国。タルフンタッシャ副王国の領土には後にヒラック(ラフ・キリキア)やクエ(キリキア平原)などの小王国が繁栄

出典:『ヒッタイト帝国』
  • 前1190年頃:「海の民」の一派ペリシテ人がエーゲ海(クレタ島かキプロス島か)からカナーンに侵入

  • 前1185年頃:エマルがアラム人などの部族に屈する

  • 前1177年頃「海の民」がアムル地方からシリア沿岸を南下し、エジプトを目指す。また、海からもエジプトに侵入。ラメセス3世はデルタ東部河口で迎撃し、アジア駐屯軍を用いて陸から侵入する「海の民」を破り、その後の海戦でも「海の民」を破った

    • 「海の民」の出自

      • この「海の民」はかつてメルエンプタハに敗れた時とは別の民族を主体として勢力を盛り返していた

      • 例えば、ペレセト(ペリシテ人。クレタ島出身とも)、チェケル(トロイア人)、シェケレシュ(後のシチリア人)、エクウェシュ(アカイア人)、ウェシェシュ(出身地不明)、トゥレシュ(エトルリア人)、デネン(キリキア人。キリキアとはアナトリア南東部のこと)、ダルダノ人(不詳)、ルッカ人、シェルデン(サルディニア人)などである

    • 「海の民」のその後

      • ペレセトやチェケルはベドウィンの侵略に対する備えとしてパレスチナ南部の海岸地方に植民されている

      • また、この撃退の後に、ラメセス3世は海の民をレヴァントに追い返す戦いを展開したと考えられる

      • こうした戦いの結果、ラメセス3世はシリアの支配権を再確立した

  • 前1175年頃:東地中海沿岸で行われた破壊活動が終焉。結果的にキリキアなども崩壊した

  • 前1143年頃:ラメセス6世が即位。この時期にエジプトは西アジアに対する宗主権を喪失。東部デルタまでがエジプトの国境となる

  • 前1120年頃:デボラ(女性の士師)とバラクに率いられたイスラエル人の北方諸部族軍(エフライム、ベニヤミン、メナシェ、ゼブルン、イッサカル、ナフタリ。参加部族は諸説あり)がイズレエル平原のタナクにて、カナーン諸都市連合軍率いるシセラ将軍を破る。カナーン連合軍は豪雨に阻まれ、キション川に流されたという。シセラはヤエルという女性に暗殺されたと伝わる

  • 前1114年頃アッシリアティグラト・ピレセル1世が即位

    • ティグラト・ピレセル1世の統治と軍事行動

      • ティグラト・ピレセルがハッティの王イニ・テシュブ(カルケミシュ最後の副王クズィ・テシュブの子孫か)と、メリド(後のマラティア)に君臨した「偉大なるハッティ国」の王のアルマリに貢納を課す

      • カルケミシュはメリドまで支配していたが、この時点でメリドは離反していた可能性もある。メリドの支配者もおそらくクズィ・テシュブの子孫

      • 他にもアッシリア軍はアナトリア南部の国家ムシュキ(フリュギア人か)も圧倒し、アラム人も従える

      • フリュギア人はティグラト・ピレセルとの抗争を経て、アナトリアの中央高原に定住。アッシリアに対抗するため、アラム人に接近した

  • 前1100年頃:遊牧民集団アクラムの内のアラム人が主導権を掌握

    • アラム人の動向

      • 彼らはイシン第2王朝時代の飢饉を契機として、メソポタミアにまで大挙侵入を開始し、ハブル川流域に定住。こうしたアラム人の進出に対し、ティグラト・ピレセルはアラム系の諸国家を破り、地中海にまで軍事遠征を行い、ビブロス、シドン、アラドスから貢物を受け取る

      • また、ティグラト・ピレセルはシリアから進出してくるアラム人に対して遠征を繰り返し、その本拠地ビシュリ山方面への攻撃のために、ユーフラテス川を28回も渡ったという

      • しかし、アッシリア側はアラム人の進出を止めることはできず、彼らは新ヒッタイトの都市をいくつか占領し、新たな都市を建設。サムアルやビト・アディニ、ビト・ヤキン、ビト・バヒアニ(首都はグザーナ)などがその代表である

      • アラム人はラクダの放牧を行い、ラクダを用いた隊商貿易を展開。やがて彼らはシリアの中央部や南部にまで進出し、カナーン人の社会の上に都市国家を築いた

    • フェニキア人の動向

      • シリア海岸では先住民のカナーン人が支配を維持しており、彼らはやがてフェニキア人と呼ばれることとなる

      • その領域は現在のレバノンを中心とするアラドスからカルメル山の麓にあるドルまでであったが(中心はティルスシドン)、フェニキア人は地中海貿易を展開し、クレタ島などに拠点を築きながら、ジブラルタル海峡に到る

      • ティルスは、トロイア陥落後まもなくの時期に、アシュケロン人(海の民か)の王に急襲されたシドンからの難民が建設したと伝わる

上図:新ヒッタイト諸国とアラム人の諸国家。アラム人の領域は橙色で表現されている

出典:Jolle, CC BY 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で

上図:フェニキア人の領域(緑)

出典:Kordas, based on Alvaro's work, CC BY 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で

上図:復元されたグザーナの宮殿正面

出典:Wikipedia
  • 前1082年頃:アラム人がバビロニアに大挙侵入。混乱の中、イシン王マルドゥク・ナディン・アッヘは消息不明に。これ以降、イシンとアッシリアとの友好関係が保たれる(アラム人、カルデア人が流入してきたことによる脅威が要因か。カルデア人はアラム人と同じセム語族とされるが特定できない)

  • 前1077年頃:アラム人が北シリア、メソポタミア、バビロニアに侵攻。結果、肥沃な三日月地帯の主要部を占領した。アッシリアはティグラト・ピレセル1世の治世末に発生した大飢饉の影響もあり、衰退

  • 前1069年頃:エジプト新王国時代が終焉。エジプト第21王朝が成立

  • 前1050年頃:パレスチナ北部の港湾都市ドルが突然破壊される。この後、この都市にはフェニキア人が居住している。なお、この時期には周辺の遺跡にも破壊の痕跡があり、フェニキア人の進出の結果とする説もある(軍事力を用いた進出か)

  • 前1050年頃:バビロニア南部にカルデア人が移住

  • 前1026年頃:アラム人の侵入などによって衰退していたイシン第2王朝が滅亡。ナブー・シュム・リブルが最後の王であった。以降、バビロニアでは多くの王朝が交替

  • 前1020年頃サウルがイスラエル人の王に即位(イスラエル統一王国時代の始まり)

  • 前1000年頃:アラム人がユーフラテス川上流域、シリア北部、ディヤラ川流域にいくつもの小国を建設

  • 前1000年頃:ティルスがシドンから覇権を奪い、フェニキアで最も有力な都市に

  • 前1000年頃:カルケミシュにて、大王家とスヒ家(クズィ・テシュブの子孫か)間の内紛が発生

  • 前1000年頃:パリシュティン国の王タイタが、トルコ最南端のアムーク平原を中心にユーフラテス川からハマトまで領域を拡大。パリシュティンとは「海の民」碑文の「ペレセト」(ペリシテ人)である可能性もある

  • 前993年頃ダビデが北方イスラエル諸部族をまとめあげ、「イスラエルの王」となる(ユダ・イスラエル両国を同君連合の形で統治)

    • ダビデの統治

      • イェルサレムに遷都し、港湾都市ドルを征服

      • ペリシテ人、カナーン人、アンモン人、モアブ人、エドム人、ダマスクスのアラム人を征服。結果、紅海からユーフラテス川に達する広大な版図を創出

      • なお、ペリシテ人とダビデが戦った際にシリアとフェニキアはペリシテ人側に加担したと考えられているが、ダビデが勝利すると、ティルスは外交方針を親イスラエルに転換

      • ハマトの王らと同盟を結ぶ

  • 前985年頃:バビロニアにて、マル・ビティ・アプラ・ウスルがエラム王朝(バビロン第7王朝)を創始。この頃にはアラム人がバビロニア地方に侵攻し、諸都市を掠奪

  • 前979年頃:バビロニアにて、ナブ・ムキン・アプリがE王朝(バビロン第8王朝)を創始、長期政権となる。しかし、この頃のバビロンはアラム人によって孤立させられており、南部と東部に定着したアラム系諸部族の軍事行動を王朝は十分に抑制できず

  • 前978年頃:エジプト第21王朝のシアメン王が即位。彼は弱体化したペリシテ人からパレスチナのゲゼルを奪取。この頃、ダビデによって攻撃されたエドム王国の王子ハダドがエジプトに逃れてきており、シアメンの王女はハダドと結婚

  • 前969年頃:ティルス王ヒラム1世が即位。彼はティルスの拡張など、内政を充実させる(フェニキアの最盛期)。また、キプロスのキティオン市の反乱を鎮圧したというので、この頃までにティルスがキプロスの一部を勢力下に置いたか。他にも外交面では、ダビデ王との友好関係を深める

  • 前967年頃:アッシリア王ティグラト・ピレセル2世が即位。彼はアラム人を討伐している

  • 前961年頃:イスラエル王としてソロモンが即位。イスラエル統一王国の最盛期を現出

    • ソロモンの統治

      • 南西のメギドなどを征服し、レバノン・シリア国境付近にまで領土を拡大

      • ティルスのヒラム1世の王女と結婚しており、通商条約も締結。また、神殿と宮殿造営に際し、資材と職人を提供したヒラム1世には、ガリラヤ地方の20の町を贈ったという

      • エジプトのシアメン王がソロモンの王妃(シアメンの娘)にゲゼルの町を贈ったか

      • ハダドとエジプト王女との子で、エジプトで養育されたゲヌバトはエドムを奪還し、即位。ソロモン王に対抗した

  • 前950年頃:アラム人のレゾンがソロモンからの独立に成功し、ダマスクスに独立王朝を樹立。アラム人勢力の中心がダマスクスに移る

  • 前945年頃:シェションク1世がエジプト第22王朝を創始。一時的にエジプトの再統一に成功

  • 前934年頃:アッシリア王アッシュル・ダン2世が即位。アラム人への反撃を開始

  • 前931年頃:ソロモン王が死去し、イスラエルの統一王朝が、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂。ソロモンの時代から100年の間に、アラム人がイスラエル王国のサマリアを包囲したが、戦車と軍馬の音に驚き、ヘト(ヒッタイト)人の諸王やエジプトの諸王の力をイスラエルが借りたと思い撤退している

  • 前927年頃:エジプト第22王朝のシェションク1世がパレスチナに遠征。イェルサレムを包囲し、ユダ王から財宝を受け取る。更に貢納の義務を負わせたか。この後、シェションクはイェルサレム王国も攻撃

  • 前924年頃:シェションク1世が死去。この後、エジプトではアメン大司祭や地方の独立が加速

  • 前911年頃:アッシリア王アダド・ニラリ2世が即位。アラム人への反撃を続行している

  • 前900年頃アダド・ニラリ2世がシドンとティルスを征服したか。ティルスがアッシリアに朝貢を始める

  • 前900年頃:フェニキア人が現在のリビアに定住し、3つの植民都市を建設

  • 前900年頃:アラム人が新ヒッタイト人とイスラエル人の両方と同盟を結ぶ

  • 前891年頃:この頃までに、アッシリアとアラム人の都市国家は6度にわたり小規模な戦闘を行い、両者の国境が確定

  • 前888年頃:ダマスクスでベン・ハダド1世が即位(ベン・ハダド王朝の創始)

    • ベン・ハダド1世の統治

      • ユダ王と同盟を結び、アッシリア、トランスヨルダンのアンモン人などと抗争を展開、時には連合

      • イスラエル王バシャに攻撃されたユダ王アサの支援要請を受けたベン・ハダド1世はイスラエル北部に侵攻し、バシャはラマの包囲を解く。更にベン・ハダドはイスラエルの北端のいくつかの町、キネレト及びナフタリの全土(ヨルダン渓谷の西側、ガリラヤ湖に到るまでの地域)を奪取した

  • 前887年:ティルスの神官エトバアルがペレス王を殺害し、王位を簒奪(エトバアル1世)。この時期、ティルスの覇権がシドンにまで及び、両国は同君連合のような状態となる。結果、エトバアルは「ティルス人とシドン人の王」と呼ばれ、フェニキア王を自称。また、エトバアルは海外植民も積極的に奨励し、北アフリカに植民市アウザを建設

  • 前886年頃:イスラエル王バシャが死去。ベン・ハダド1世との戦いで戦死したとする説がある。ベン・ハダドは上ガリラヤを一時的に占領

  • 前885年頃:オムリがイスラエル王に即位(オムリ王朝の創始)。首都をサマリアとする。外交面では、子のアハブの妻にティルス王テバアルの娘を迎え、フェニキアとは通商条約を締結。一方でアラム人のダマスクスとは対立し、その王ベン・ハダド1世とアフェック(エン・ゲブか)を巡って戦う

  • 前883年:アッシリア王アッシュル・ナツィルパル2世が即位

    • アッシュル・ナツィルパル2世の拡大

      • 東にあったザムア、北方のハブフ、ナイリ、ウラルトゥ、西方のカルケミシュ(サンガラが統治)、ティルス、シドンを征服。ウンキ(ルバルナが統治)、ルアスにも侵攻し、屈服させた。ティルス、シドン、ビブロス、アルワドなどの都市から貢納させる

      • 南西では、同盟を結んで反逆していたユーフラテス川中流域のスヒ、ヒンダヌ、ラケに進軍・征服し、貢納を課す

      • 結果、北はティグリス川上流、東はザグロス山脈とクルディスタン山岳地域、西ではバリフ川周辺、レバノン山、地中海沿岸にまで領土を拡大させた

  • 前880年頃:アッシリアがシリア・フェニキアの諸都市より朝貢を受ける

  • 前878年頃:イスラエルがアラム人に侵攻され、ヨルダン川東と西パレスチナの一部を喪失。しかし、アッシリアの台頭により、ダマスクスとイスラエルは協力関係に

  • 前872年頃:ダマスクス王ベン・ハダド2世が即位。イスラエルのアハブ王は彼と東ヨルダンの交易路をめぐり交戦。ベン・ハダドはサマリアを包囲するも、奇襲によって撃退された。その後、アフェックにて再戦し、アハブがベン・ハダドを破る。ベン・ハダドは捕らえられ、アハブはダマスクスがオムリから奪った町々の返還を約束させる

  • 前858年:アッシリア王シャルマネセル3世が即位

    • シャルマネセル3世の征服活動

      • 前826年までに35回もの遠征を繰り返す。シリア・パレスチナに数次にわたって遠征し、地中海にまで達する

      • ティルスとシドンに対して遠征し、貢物を収めさせ、ダマスクスを従属させた。シリア北部に帰還する際には、ビト・アディニを征服し、アッシリアの前線基地としている

      • この頃にはビト・バヒアニの首都グザーナも征服され、アッシリアの行政州となっていたか

上図:新アッシリア帝国の版図拡大

出典:『古代メソポタミア全史』
  • 前853年:アッシリア王シャルマネセル3世がシリアに遠征。抵抗勢力を退けつつ、アレッポとハマトを占領し、カルカルを掠奪するも、ダマスクス王ベン・ハダド2世を中心とする反アッシリア同盟(12の王国の連合)が、およそ10万のアッシリア軍とオロンテス川近郊で激突(カルカルの戦い)。結果、アッシリアの撃退に成功し、アッシリアの進出は一時停止

    • 反アッシリア同盟の陣容

      • ダマスクス王ベン・ハダド2世を中心に、イスラエル王アハブ、ハマト王ウルヒリナ、フェニキアのアラドス、アルワドのマティヌ・バアル、アラブ人ギンディブ、アンモン、エジプト王オソルコン2世など

      • この戦いで反アッシリア同盟軍はアラブ王の用意したラクダ部隊も用いていた

    • カルカルの戦い後の展開

      • この戦いの後も、同盟軍はアッシリア軍と交戦しており、ダマスクスは5、6度もアッシリア軍と戦ったという

      • ハマトでは、ウラタミ王の後にアラム系のザクルが王位を奪っている

  • 前853年頃:アハブがユダ王ヨシャファトと同盟を結び、ヨルダン川東のラモト・ギレアドをアラム人の支配から奪還しようと出陣するも、ダマスクス王ベン・ハダド2世に敗死(ラモト・ギレアドの戦い。諸説あり)

  • 前850年頃:ヴァン湖沿岸にフルリ系のウラルトゥ王国が成立(首都はトゥシュパ)。メリドとクンムフを影響下に入れていた

  • 前841年頃:イスラエル王ヨラムとユダ王国の王アハジヤがダマスクス王ベン・ハダド2世と激突。しかし、両王はラモト・ギレアドで敗北(ヨラムは負傷)。この後、イスラエル王国の預言者エリシャはダマスクスに赴き、軍司令官のハザエルにベン・ハダド2世を殺害させる。そして、ハザエルがダマスクス王として即位

    • ハザエルの征服活動

      • イスラエルやアッシリア、トランスヨルダンのアンモン人などと抗争を展開。結果、イスラエル王国の諸都市を攻略、ヨルダン川東の全域をイスラエル王国から奪取した

  • 前841年頃:イスラエル軍司令官イエフが王を名乗り(イエフ王朝)、イズレエルに進軍していたヨラムを殺害

  • 前841年:アッシリア王シャルマネセル3世が4度目のシリア侵入を開始。ダマスクスに遠征し、包囲するも攻略できず。その途上にて、ティルスやシドンなどのフェニキア諸都市、イスラエル王イエフなど、5つの地域から朝貢を得る。結果、フェニキア諸都市はアッシリアの朝貢国となる。オロンテス川下流のパッティンのカルパルンダやダマスクスなども朝貢した

  • 前840年頃:イエフがユダ王アハズヤを殺害。イスラエル、ユダの両王を殺害した結果、イエフは南北の両王国を支配。イエフのもとで、カナーン的祭儀は粛正された。ユダ王にはオムリの孫娘で、ヨラムの妃であったアタルヤが即位

  • 前838年:シャルマネセル3世が5度目のシリア遠征を実施。ダマスクスを包囲し、ティルス、シドン、ビブロスから朝貢を受ける。この時には、イエフがアハブの妻であったイゼベル(ティルス王女)を殺害し、イスラエルとシドンの同盟関係はすでに終了していたか(ティルスとの同盟も終了か)。恐らくこのシリア遠征でアッシリアは、グルグムとクンムフ両地域の各所で抵抗にあっている

    • この頃の他勢力の状況

      • この頃には、サムアルのキラムワが、クエの王カテからの圧迫を排除するために、アッシリア王に介入を要請していた

    • この後の展開

      • アッシリアがこれより後にシリア・パレスチナを放棄して、南アナトリアへ向かったため、ダマスクスのハザエル王はイスラエルへの攻撃を開始。結果、イスラエル王国はトランスヨルダン北部を失い、ガトにまでハザエルは遠征

  • 前835年頃:ユダの女王アタルヤが殺害され、ヨアシュがユダ王に即位(ダビデ王朝の復活)。彼の治世にはダマスクス王ハザエルが攻勢を強めており、彼がイェルサレムにまで攻め上った際、ヨアシュはハザエルに貢ぎ物をして難を逃れている(ヨアシュ王はイスラエル諸都市やトランスヨルダンの地域を奪回したとも)

  • 前832年:シャルマネセル3世が北方遠征を頻繁に実施。サルドゥリ1世治世下のウラルトゥ王国に遠征

  • 前824年:シャルマネセル3世が死去。シャルマネセルは治世末年にタバルへ侵攻し、現地の諸王を屈服させる。王の死後、アッシリアは縮小の時代に突入

  • 前814年:伝承によれば、フェニキア人都市ティルスの王ピュグマリオンの姉妹エリッサ(ディードー)が逃亡し(政争に巻き込まれたことが原因か)、北アフリカにカルタゴを建設したという(考古学的には確実にカルタゴの存在が裏付けられるのは前730年代)。カルタゴはリビア人達に毎年貢租を払うことになったらしい。カルタゴはマルタ島やシチリア島、スペイン南岸に植民市を建設

  • 前813年頃:イスラエル王ヨアハズが即位。彼はダマスクス王ハザエルの侵攻を受ける

  • 前805年:アッシリア王アダド・ニラリ3世がダマスクスを包囲。ダマスクス王ハザエルはアッシリアに朝貢した

  • 前805年頃:ダマスクス王ベン・ハダド3世が即位。彼はイスラエル王国を侵略し、領土を奪い取って属国とする。また、ユダ王国も屈服させた

  • 前800年頃:アダナを中心とするキズワトナ王国が滅亡

  • 前800年頃:ウラルトゥ王メヌアが、ユーフラテス川沿岸の町メリドに進出。更にアッシリアからティグリス川上流域やザブ川流域一帯を奪取し、統一王国を建設

上図:メヌア王時代のウラルトゥ王国(黄)

出典:© Sémhur / Wikimedia Commons
  • 前800年頃:フェニキアの艦隊がイベリア半島のガディル(ガデス)市や、北アフリカのチュニス近郊のウティカ市、北アフリカ大西洋岸のリクスス市を建設したか。当時、イベリア半島には「タルテッソス王国」(先住民の居住地群の総称)が存在したが、そこにも植民を派遣。また、フェニキア人はキプロス島にも入植

上図:フェニキア人の交易ネットワーク

出典:User:Rodrigo (es), User:Reedside (en), CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前800年:アッシリア王アダド・ニラリ3世がシリア及びフェニキア(シドン、ティルスなど)に進出し、これらの地を支配下として朝貢を受ける(ペリシテ人の諸都市もアッシリアの朝貢国となった)。また、ダマスクスの攻略にも成功。加えて、ユダ王国からも朝貢させた

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